| 保田與重郎 Yasuda Yojūrō | |
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| ファイル:保田與重郎.jpg | |
| 誕生日 | 1910年4月15日 |
| 死亡日 | 1981年10月4日 |
| 死亡年齢 | 71歳 |
| 出身地 | 奈良県 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京帝国大学 |
| 職業 | 文芸評論家 |
| 代表的な実績 | 『日本の橋』『日本浪曼派』 |
| 受賞 | 池谷信三郎賞 |
概要[編集]
保田與重郎(やすだ よじゅうろう、1910年4月15日 - 1981年10月4日)は、昭和の文芸評論家。同人誌『コギト』『日本浪曼派』を率いて反近代・日本回帰を唱え、時代閉塞のなかにあった戦時下の青年たちに熱狂的に支持された。その独特の修辞と思想は毀誉褒貶の激しいものだったが、近代日本の精神史を考えるうえで避けて通れない巨人である。
生い立ちと修業[編集]
奈良県桜井の生まれ。古代史の舞台・大和の風土に育ったことが、後年の古典回帰の素地になったといわれる。大阪高校を経て東京帝国大学美学科に進み、在学中から評論活動を始めた。
日本浪曼派[編集]
1932年に同人誌『コギト』、1935年には『日本浪曼派』を創刊・主宰した。亀井勝一郎・中谷孝雄ら同志とともに、近代合理主義への批判と古典・伝統の賛美を掲げ、日本の美と精神への「回帰」を説いた。その情熱的なレトリックは、出口の見えない時代を生きる文学青年を強く惹きつけた。
代表作[編集]
代表作に、日本の風土に架かる橋を主題に文明を論じた『日本の橋』(1936年、池谷信三郎賞)がある。ほかに『戴冠詩人の御一人者』『後鳥羽院』『芭蕉』など、古典や歌人を独自の視点で読み解いた評論を数多く著した。
戦後と評価[編集]
戦中の言論活動ゆえに戦後は公職追放となり、文壇の主流からは長く距離を置かれた。それでも持論を曲げず、雑誌『祖国』を創刊するなどして70年の生涯にわたり旺盛に書き続けた。その文業は後年再評価が進み、三島由紀夫ら後続の作家にも影響を与えたとされる。評価が分かれる存在であることは、ここでも中立に記しておきたい。