| 今 純三 こん じゅんぞう | |
|---|---|
| ファイル:Kon Junzo.jpg | |
| 誕生日 | 1893年3月1日 |
| 死亡日 | 1944年9月28日 |
| 死亡年齢 | 51歳 |
| 出身地 | 青森県弘前 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 銅版画家 |
| 活動期間 | 1910年代〜昭和 |
| 代表的な実績 | 青森の創作版画の祖、「奥入瀬渓流」連作、著書『版画の新技法』 |
概要[編集]
今純三(こん じゅんぞう、1893年〈明治26年〉3月1日 - 1944年〈昭和19年〉9月28日)とは、大正から昭和初期に活躍した日本の銅版画家。ほぼ独力で銅版画(エッチング)の技法研究に取り組み、昭和初期における日本の銅版画の普及に大きく貢献した。青森の風景や風俗を題材にした作品を数多く残し、「青森県の創作版画の祖」と呼ばれるらしい。考現学で知られる兄・今和次郎とともに、東北の文化を記録する眼を持った人物でもあった。
生い立ち[編集]
1893年(明治26年)、青森県(現・弘前市)代官町で、医師の父・成男と母きよの三男として生まれた。今家は代々弘前藩の典医を務めた家系であった。父が東京で医院を開業するため一家で上京し、独乙学協会学校中学部に学んだのち中退して、太平洋画会研究所に入って絵を学んだ。
画家から版画家へ[編集]
1913年(大正2年)の第7回文展に《公園の初秋》が初入選し、1919年の第1回帝展では《バラライカ》が入選するなど、まず油彩画家として歩み始めた。転機となったのは1923年(大正12年)の関東大震災で、東京の住居が倒壊したのを機に青森市へ移住する。この頃から石版画やエッチングの技法研究に本格的に着手し、銅版画家へと大きく舵を切った。
青森での活動[編集]
1927年(昭和2年)に青森県師範学校の図画科教授嘱託として美術を教え、1933年に退職して画業に専念した。1935年にはエッチングによる「奥入瀬渓流」連作や、県内の風景・風俗を題材にした銅版画の小品集の制作に取り組んだ。郷土の自然と暮らしを克明に刻んだその版画群は、青森の創作版画運動の礎となった。
普及への貢献と晩年[編集]
1939年(昭和14年)に一家で上京し、池袋でエッチング版画の制作に専念。1943年(昭和18年)には著書『版画の新技法』を出版し、独力で築いた銅版画の技法を後進へと伝えた。エッチング作家協会の活動にも関わり、近代日本の銅版画普及に尽力した。1944年(昭和19年)、東京で52年の生涯を閉じた。後進には青森ゆかりの版画家関野準一郎がいる。