ミスターパーフェクト槙原 | |
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ID | YouTube:@mr.perfect_makihara |
本名 | 槙原 寛己(まきはら ひろみ) |
誕生日 | 1963年8月11日 |
年齢 | 61歳 |
出身地 | 愛知県半田市 |
身長 | 187㎝ |
血液型 | B型 |
学歴 | 大阪高校 |
プラットフォーム | YouTube |
登録者数 | YouTube:23万人[1] |
リンク | YouTubeTwitterInstagram |
掲示板 | |
n/インフルエンサー |
概要[編集]
日本のYouTuber(ユーチューバー)、YouTubeチャンネル。プロ野球選手。野球に関するトーク動画を投稿。
歴史[編集]
- 1981年11月25日のドラフト会議にて読売ジャイアンツから1位指名を受け、入団。
- 1983年、春のグアムキャンプの一軍メンバーに選抜される。ここで監督の藤田元司から大きく曲がるカーブを教わり、速球を生かせるようになった。キャンプから若手の成長株として評価され、一軍に初昇格して活躍した同期生の吉村禎章、1歳年上の駒田徳広らとともに背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた。
- 1984年、ストレートの最高球速がボール球ながら155km/hと当時の日本最速スピードを記録。
- 1987年は、新人王を獲得した1983年以来4年ぶりに2桁となる10勝(6敗)を挙げ、チームの4年ぶりのリーグ優勝に貢献。西武との日本シリーズでは第4戦に先発し、3安打11奪三振で完封し、シリーズ初勝利を挙げた。シリーズは2勝4敗で西武に敗れたものの、優秀選手賞を受賞した。
- 1988年は、プロ入り後初めて年間200イニングを突破した(208回1/3)。また、当時はリーグ連盟表彰の対象ではなかったが、リーグ最多の187奪三振を記録した。
- 1993年には斎藤、桑田が軒並み調子を落とす中で孤軍奮闘し、自己最高の13勝、防御率2.28の好成績でチーム最多勝、FAの権利を取得した。シーズンオフになり槙原はいくつかの球団から誘いを受けたが、球団フロントが慰留などの態度を一切示さないことに不信感を持ちFA宣言をする。その後、当時監督を務めていた長嶋茂雄が槙原の自宅を訪問、説得を受けて巨人に残留を決めた。この際に長嶋が槙原の背番号と同数の17本のバラの花束を持ってきた逸話が残されているが、実際は20本だったという。
- 1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で平成初の完全試合を達成(槙原寛己の完全試合)。平成唯一および20世紀最後の達成者になった。現役引退後には「ミスター・パーフェクト」として紹介されることも多い。
- 1995年オフにレーシック手術を受けたが、最初の手術で左目に痛みが出て物が二重に見えるようになってしまい、翌シーズン直前に新しいコンタクトレンズを用意し、シーズン終了後再手術をすることとなった。
- 1998年、開幕から出遅れ4月半ばにシーズン初登板となり5月の頭にシーズン初勝利が通算150勝目の記録となった。
- 2001年、肩の怪我からの再起を目指したが一向に回復せず、このシーズンの一軍での登板は引退試合の1試合の登板に留まり、現役引退。引退試合は9月30日の横浜戦で、この試合では槙原から同年引退が決まっていた斎藤雅樹にリレーされ、2人の球を受けたのは同年引退が決まっていた村田真一だった。
- 2021年、TBSテレビ、スポーツニッポンの評論家を務めている。2017年までは、TBSラジオの野球解説者でもあった。2007年オフは巨人の臨時コーチとしてキャンプに参加した。
- 2019年4月30日、平成最後の日で平成最後の試合となった巨人-中日3回戦(東京ドーム)前に、槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の“平成の3本柱”がマウンドに立ち、「10・8決戦」のリレー形式での始球式を行った。捕手は村田真一が務めた。
- 2021年2月25日、YouTubeチャンネル「ミスターパーフェクトチャンネル」を開設。
余談[編集]
- 花火が大好き。着火しようとしていたら花火が急に引火し、勢いよく散った火花が槙原の右手親指に接触し、大きな水ぶくれができた。その翌日(1988年7月20日・対阪神戦)は先発登板日だったため、黙って登板した。8回に水ぶくれが破れたが、事実を知らない解説者が「血が出ながらも頑張っている」といい、槙原は本当のことも言えず、耐えながら投げ続けた。
- 競馬が大好きで、2008年有馬記念のトークイベントに出席したり、TCK・東京競馬場でも度々目撃されている。
- ↑ 2025年1月