アントニオ猪木 | |
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ID | YouTube:@user-sj9jt3ed7q |
本名 | 猪木 寛至(いのき かんじ) |
誕生日 | 1943年2月20日 |
年齢 | 82歳 |
出身地 | 神奈川県横浜市鶴見区 |
身長 | 190cm |
血液型 | AB型 |
プラットフォーム | YouTube |
登録者数 | YouTube:21万人[1] |
事務所 | - |
別名 | - |
リンク | YouTubeTwitter |
掲示板 | |
n/インフルエンサー |
概要[編集]
日本のYouTuber(ユーチューバー)、YouTubeチャンネル。 プロレスラー
歴史[編集]
- 1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木寛至として、東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)。
- 1962年(昭和37年)11月9日、沖縄県那覇市での長沢秀幸との試合において、リングネームをアントニオ猪木に改名。このリングネームは、先輩レスラー豊登による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するためなど諸説ある。なお、本名で活動中に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山は、その名を猪木のリングネームにしようとしたという。
- 1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。西海岸、中西部、南部をサーキットし、2年後に帰国。この遠征中には、デューク・ケオムカと組んでテキサス東部版のNWA世界タッグ王座、およびヒロ・マツダと組んでミッドアメリカ版の同王座を奪取している(同期の馬場はMSGのトップイベンターには起用されたものの、アメリカ修行中のタイトル戴冠は果たしていない)。ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座はエディ・グラハム&サム・スティムボートを破って獲得したものであり、東京プロレスと国際プロレスの合同興行においても、グラハム&ジョニー・バレンタインを相手に防衛戦が行われた。なお、テキサスではジョー・ブランチャードを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得したともされるが、これは同じく同地区で「トーキョー・トム」を名乗っていたレイ・ウルバノとの混同である。
- 1966年(昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、ジャイアント馬場や吉村道明らとの合同練習に参加するために立ち寄ったハワイにおいて、前年末に日本プロレスを退社し、極秘裏にハワイ入りしていた豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱(太平洋上の略奪)。帰国後の4月23日、自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表。10月12日の旗揚げ戦でのジョニー・バレンタインとの試合で名声を得る。
- 日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。
- 1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したが、その後クーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。
- 1982年(昭和57年)2月27日、沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。
- 1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した。
- 1986年(昭和61年)6月にはプロボクシング団体日本IBFと業務提携開始。1987年(昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、マサ斎藤と観客なしのノーピープルマッチを敢行。
- 1988年(昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP挑戦となった。
- 1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。
- 1995年(平成7年)4月、平和のための平壌国際体育・文化祝典で猪木は当初、前年46歳の誕生日数か月前にWBA・IBF世界ヘビー級王座を獲得したジョージ・フォアマンとの対戦を希望したが、フォアマンは「とんでもない。北朝鮮になど行かない。俺は第一に愛国者、第二にボクサーだ。わが国が北朝鮮と外交関係を持っていない以上、俺がそこに行くなんてありえない」と拒否。1974年キンシャサの奇跡で最初に世界王座に君臨していたフォアマンをKOして世界王座奪取し、1976年猪木と対戦したアリが来賓として参加、猪木自身はシングルマッチ 20分1本勝負リック・フレアーに完勝。12月30日、大阪城ホールにて自主興行「INOKI FESTIVAL」を開催。
- 1996年(平成8年)11月3日には、以前自身が平壌での対戦を熱望したフォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたWBU世界ヘビー級王座戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。
- 1998年(平成10年)、沖縄県豊見城村(現・豊見城市)内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。この「道」のセリフは、後に盛んに春一番らがものまねの対象にしている。
- 2002年(平成14年)8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのスカイダイビングに挑戦。国立霞ヶ丘競技場陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。
- 2003年(平成15年)12月31日には日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。
- 2005年(平成17年)11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。
- 2006年(平成18年)4月、アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。IFL参戦のため、同年9月に自身が監督を務める東京サーベルズを結成。同時に、自ら企画した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜」の開催延期を発表するなど試行錯誤を繰り返した。
- 2007年(平成19年)3月、自身が社長(後に会長)を務める新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足、6月に両国国技館にて旗揚げ戦を行った。娘婿であるサイモン・ケリー猪木も新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。
- 2007年(平成19年)7月11日、親交のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれている。プロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。
- 2007年(平成19年)12月20日、有明コロシアムで行われた小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止を無視して暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。
- 2010年(平成22年)2月1日、WWEは猪木のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。WWE殿堂入りを果たした日本人は猪木が初めてである。理由は、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。インダクター(プレゼンター)はスタン・ハンセン。
猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3月27日、アリゾナ州フェニックスにて行われた。猪木は翌日にアリゾナ州グレンデールのユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムで開催された第26回レッスルマニアにも登場し、観衆からの祝福を受けた。
- 2010年(平成22年)12月、「INOKI BOM-BA-YE」を復活させると共に、「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜」のプロデューサーとして大晦日興行に復帰する。
- 2011年(平成23年)12月31日、「元気ですか!! 大晦日!! 2011」を開催。
- 2012年(平成24年)7月10日、中国・上海で新団体「上海愛武」を旗揚げ。
- 2012年(平成24年)11月20日、キューバ友好勲章を授与される。
- 2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた。
- 2017年5月25日、自身がプロデュースする新イベント「ISM」の旗揚げを発表。「ISM」の収益金については、自身の師匠の一人であるゴッチの墓を日本国内に建設するための費用とする。一方でIGFに対しては、既に運営から手を引いていることと「会社を整理する方向で考えている」との方針を明かした。これに対しIGF側は、猪木が役員は退いているものの依然同社の大株主の一人であるとして、団体存続を目指す方針を訴えている。同月にはIGF側が猪木の夫人に対する不当利得返還請求の訴訟を起こすなど、一部の問題は法廷に持ち込まれていたが、最終的に2018年3月に猪木とIGFとの間で和解が成立し、猪木は所有するIGFの全株式を第三者に売却してIGFとの関係を断った。
- 2017年10月21日、両国国技館での『INOKI ISM.2』において自身の生前葬を行う。
- 2019年2月19日、『ジャイアント馬場没後20年追善興行』に来場し試合前にあいさつ。ジャイアント馬場関連イベントに登場するのは初。リングでの絡みを含めれば1979年の「夢のオールスター戦」以来となった。
- 2020年7月26日、自身のツイッターで、難病の「心アミロイドーシス」という病におかされていることを告白。闘病生活を送っている。
- 2021年11月27日放送のNHK BSプレミアム『燃える闘魂 ラストスタンド 〜アントニオ猪木 病床からのメッセージ〜』にて、正式な病名は心アミロイドーシスではなく「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」だと公表した。
話題[編集]
余談[編集]
- 13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。
- 幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと呼ばれていたが、ブラジル移住後は陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど、その身体能力を発揮する。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。
- 実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産した。
- ↑ 2025年1月