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2024年1月8日 (月) 08:44時点における版
| デヴィ夫人 | |
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![]() (Source:google) | |
| ID | YouTube:@lady.dewichannel |
| 本名 | ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno) |
| 誕生日 | 1940年2月6日 |
| 年齢 | 86歳 |
| 出身地 | 東京府東京市麻布区霞町 |
| 身長 | 159cm |
| 血液型 | A型 |
| 学歴 | 東京都立三田高等学校(中退) |
| プラットフォーム | YouTube |
| 登録者数 | YouTube:25万人[1] |
| 事務所 | - |
| 別名 | 根本 七保子(ねもと なおこ) |
| リンク | YouTube |
概要
日本のYouTuber(ユーチューバー)、YouTubeチャンネル。 セレブ生活の裏側や、普段TVでは見せない素顔の動画を投稿。
歴史
- 1955年(昭和30年)、15歳の時、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演。
- 地元の高陵中学校卒業後、東京都立三田高等学校定時制課程に進学すると同時に、150倍の難関を突破して千代田生命保険(現・ジブラルタ生命保険)に入社したが、昼休みや休日にも貧しい家計を維持するため、喫茶店などでのアルバイトを掛け持ちする日々を送った。
- 1956年に父が亡くなった事に伴い高校を中退した後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く。
- 1959年(昭和34年)、19歳のとき、人口2億6400万人の大国であり世界最大イスラム教国家でもあるインドネシアへの開発援助に伴い、東日貿易の秘書という名目で、インドネシア建国の父であるスカルノ初代大統領のもとに送り込まれた。この件に当時「昭和のフィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫が関わっていたという説がある。
- 独立後間もない上に、東西冷戦下にあったインドネシアにおいて、当時スカルノ大統領は日本外交や資金援助の取り付け等を非常に重要視していた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年(昭和37年)にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人になる。
しかし、同時期にマスコミの執拗な取材により体調を崩していた母が亡くなった。更にその2日後、セールスマンに全財産を騙し取られたうえ、母の死に目に逢えなかった実弟の八曾男が自宅アパートでガス自殺し、それを伝え聞いた彼女は「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白し、後にスハルト大統領から贈られた5.6ヘクタールの家に実弟の名から「Wisma Yasoo」と命名した。この家はのちに接収され、サトリアマンダラ博物館になっている。
- 1965年(昭和40年)9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノが失脚、代わってスハルトが大統領となった。スカルノは軟禁状態におかれ、デヴィはインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際的立場上の理由で断念。スカルノの第2夫人を除く夫人は皆、大統領のもとを離れ逃げ切った。
- 1967年(昭和42年)3月11日、都内病院にて娘のカリナを出産する。正式名は「Kartika Sari Dewi Soekarno. Kartika Sari」。スカルノ大統領の8番目の子供であった。デヴィは政治的に亡命者に寛容なフランスを亡命先に選ぶ。スカルノ元大統領存命中にも関わらず数回の婚約発表が取りざたされたが、結局再婚はしなかった。1969年には、日本の俳優・津川雅彦との不倫騒動がマスコミを賑わせた。
- スカルノ大統領はクーデターを予期し、以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれるものの、1970年(昭和45年)のスカルノ死去時にスカルノ家、ならびにインドネシア政府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失し、第3夫人としての資産は与えられなかったとも、実際には死去時に遺産が与えられたとも言われている。いずれにしてもその後のインドネシア政府の方針により、第3夫人としての遺産分与が行われた。
- 芸能活動は1970年代から開始した。1974年、小学館の1970年代・1980年代の日本を代表する人気グラビア系男性向け芸能情報雑誌『GORO』の創刊記念号で、写真家・デイヴィッド・ハミルトンの撮影によるヌード写真を披露した。
「社交界の華」とも呼ばれたその容姿で多くの要人らと関係をもった。1980年(昭和55年)にはインドネシアへ戻り、石油関連事業を興した。しかし、実際にはスカルノ体制崩壊とその後のスハルト政権成立により、元大統領夫人としての外交的立場を失っていたとのこと。また、日本政府や日本の企業財閥側も、クーデターで失脚したスカルノ夫人を擁護することはなかったとされる。
- 1991年(平成3年)、アメリカのニューヨークへ移住した。以後インドネシアでの第一線から退き、その後のインドネシアでの政変や第1夫人・第2夫人を中心とした政治の動乱には巻き込まれることなく、日本に帰国し現在に至っている。
話題
余談
- インドネシアの大統領だったスカルノの第3夫人にあたる。インドネシア語(マレー語)・仏語・英語に堪能である。
- 口内ケアが完璧で2022年で82歳だが虫歯が全くなく全て自分の歯である。
- 北朝鮮とは夫のスカルノを通して親交があり、金日成花の命名式にはスカルノと共に北朝鮮で行われた式典に同席している。この事もあり北朝鮮擁護の立場を取っている。朝鮮総連主催の式典にも出席を重ねている。北朝鮮による日本人拉致事件や人工衛星のテスト問題で北朝鮮を擁護する立場からの発言をおこなっているほか、日本と北朝鮮の国交正常化実現を訴えており、朝鮮総連の中央機関紙である「朝鮮新報」から、同国に対するその姿勢を高く評価されている。
- ↑ 2024年1月
