藤子不二雄Ⓐ
Fujiko Fujio A
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出身地・富山県氷見市の「氷見市潮風ギャラリー」内のまんが図書室(Wikimedia Commons・CC BY-SA 2.0)
本名 安孫子素雄(あびこ もとお)
誕生日 1934年3月10日
死亡日 2022年4月6日
死亡年齢 88歳
出身地 富山県氷見郡氷見町(現・氷見市)
国籍 日本
学歴 富山県立高岡中部高等学校(現・富山県立高岡高等学校)卒業
職業 漫画家、エッセイスト、作詞家
肩書 漫画家(藤子不二雄 → 藤子不二雄Ⓐ)
活動期間 1951年 - 2022年
代表的な実績 『忍者ハットリくん』『怪物くん』『プロゴルファー猿』『笑ゥせぇるすまん』『まんが道』『魔太郎がくる!!』
受賞 日本漫画家協会賞 文部科学大臣賞(2005年)、旭日小綬章(2008年)、手塚治虫文化賞 特別賞(2014年)ほか
事務所 藤子スタジオ
別名 藤子不二雄(1988年までのコンビ名義)、我孫子素雄
リンク https://fujiko-a.com/


概要[編集]

藤子不二雄Ⓐ(ふじこ ふじお エー、本名・安孫子素雄、1934年3月10日 - 2022年4月6日)とは、『忍者ハットリくん』『怪物くん』『プロゴルファー猿』『笑ゥせぇるすまん』『まんが道』などで知られる日本の漫画家である。藤子・F・不二雄(藤本弘)と組んで「藤子不二雄」名義で活動し、1988年の独立後は人間の欲や弱さを突くブラックユーモア作品で独自の位置を築いた。

詳細[編集]

生い立ちと藤本弘との出会い[編集]

1934年3月10日、富山県氷見郡氷見町(現在の氷見市)にある曹洞宗の古刹・光禅寺の住職の長男として生まれた。1944年に父が急逝したため、親族を頼って高岡市へ転居する。

転入先の定塚国民学校で出会ったのが、のちの藤子・F・不二雄となる藤本弘である。二人は意気投合して漫画を描き始め、富山県立高岡中部高校(現・高岡高校)在学中の1950年から合作で投稿作品を制作。1951年、『毎日小学生新聞』に掲載された『天使の玉ちゃん』で漫画家としてデビューした。

新聞社勤めから上京へ[編集]

高校卒業後の1952年、伯父が専務を務めていた富山新聞社に入社し、学芸部と社会部で似顔絵やインタビュー記事を担当した。会社勤めのかたわら、夜や休日には藤本と漫画を描く生活で、同年11月に雑誌デビュー、翌1953年には雑誌連載も始まり、二人がかりで描き上げた単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』も刊行されている。

1953年12月、藤本から上京を誘われる。漫画一本の藤本と違い、安定した勤め人の生活を手放すことには迷いがあったが、母から返ってきた答えは「好きにしなさい」という予想外のものだった。大いに悩んだ末に新聞社を退社し、1954年6月に藤本とともに上京した。

トキワ荘時代と「原稿落とし」[編集]

上京後、二人は手塚治虫が暮らしていたアパートトキワ荘に入居し、石ノ森章太郎や赤塚不二夫らとともに戦後漫画の中核となる世代を形づくった。仕事は順調に増え、月に約10本を抱える人気作家になった。

ところが1955年の正月に帰省した際、多忙からくる体調不良で11本の仕事のうち5本を落としてしまう。業界から干されることはなく翌年には再び連載を獲得し、4年後には連載10本の売れっ子に返り咲いた。この失敗を深く恥じ、以後は一度も原稿の締め切りを落とさなかったという。

オバQブームとヒット作の量産(1960年代)[編集]

合作の『オバケのQ太郎』がアニメ化とともに社会的なブームとなり、藤子不二雄の名は全国に知られるようになった。ほぼ同じ時期に安孫子は『忍者ハットリくん』(1964年〜)、『怪物くん』(1965年〜)を発表し、いずれも何度もアニメ化・映像化される代表作となった。1966年に結婚している。

ブラックユーモアへの転身(1968年〜1970年代)[編集]

1968年からは大人向けの漫画にも進出し、『笑ゥせぇるすまん』の前身となる『黒ィせぇるすまん』を生み出した。のちに「ブラックユーモア短編」と呼ばれる短編群のほか、『毛沢東伝』『愛ぬすびと』『ミス・ドラキュラ』などを次々と発表しており、作家人生を通じて最も暗く実験的な作品が集中したのがこの1970年前後である。

並行して少年週刊誌でも『まんが道』『魔太郎がくる!!』『ブラック商会変奇郎』『プロゴルファー猿』を連載し、人気を集めた。なお、藤本との合作は1976年の『オバケのQ太郎』の読み切りがほぼ最後で、それ以降は「藤子不二雄」名義であっても、ほぼすべてがどちらか一方の単独作品である。

藤子不二雄ブームと独立(1980年代)[編集]

1980年代には藤子不二雄ブームが起こり、安孫子も『怪物くん(新)』『(新)忍者ハットリくん』『ウルトラB』など児童漫画を数多く執筆した。1987年に独立を発表し、1988年から「藤子不二雄Ⓐ」として活動する。Ⓐは本名の安孫子(Abiko)の頭文字に由来する。独立の背景には家庭の事情や藤本の体調があったとされる。

独立後:プロデュースと『笑ゥせぇるすまん』ブーム[編集]

独立後は映画『少年時代』(1990年)をプロデュースし、藤本賞特別賞や山路ふみ子文化財団特別賞を受けた。1989年にはTBS系の情報番組『ギミア・ぶれいく』の1コーナーとして『笑ゥせぇるすまん』がアニメ化されて大人気となり、新作の長期連載へとつながった。1999年にテレビ朝日系でドラマ化された際には、安孫子自身が演出を務めている。

一方で『ビリ犬(新)』(1988〜1989年)、『パラソルヘンべえ』(1989〜1991年)、『プリンスデモキン』(1991〜1999年)と、20世紀の終わりまで児童漫画も描き続けた。1998年には黒澤明の映画を漫画化した単行本『用心棒』を刊行し、大胆な画面構成が高く評価された。

2000年代以降と晩年[編集]

2000年代以降も、『まんが道』の続編『愛…しりそめし頃に…』の連載を続けた。旧作の映像化も相次ぎ、2004年にはSMAPの香取慎吾主演で実写映画『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』が公開、2010年には嵐の大野智主演で『怪物くん』が連続ドラマ化され、3D実写映画にもなった。『忍者ハットリくん』はインドで人気が爆発し、2012年には日本とインドの共同制作による新作アニメが放送されている。

2014年には生誕80周年を記念して「藤子不二雄Ⓐデジタルセレクション」の刊行が始まり、2015年までに215冊に達した(事実上の全集)。同年、『ジャンプスクエア』の連載『PARマンの情熱的な日々』を12月号で休載。2019年には富山市の高志の国文学館で特別展「藤子不二雄Ⓐ展 -Ⓐの変コレクション-」が開かれた。

死去[編集]

2022年4月7日の朝、神奈川県川崎市多摩区の自宅の敷地内で倒れているところを発見され、死亡が確認された。88歳だった。死亡日はのちに前日の4月6日と発表されている。同年10月31日には、東京都内で「お別れの会」が開かれた。『まんが道』シリーズは未完のまま残された。

作風[編集]

藤子・F・不二雄が子ども向けの明るいSF的空想を得意としたのに対し、Ⓐの持ち味は人間の弱さや欲を突く黒い笑いだった。『笑ゥせぇるすまん』は、「ココロのスキマ、お埋めします」と言って近づく喪黒福造が、依頼人の欲望を叶えたうえで破滅させるという構成で、強烈な後味を残す作品として語り継がれている。

一方で『忍者ハットリくん』『怪物くん』『プロゴルファー猿』のように、明快な娯楽作品も数多く手がけた。両極端を同じ作家が書き分けていた点が、Ⓐという作家の幅である。作風の変遷を大まかにたどると、1959年ごろはヒーロー物・アクション物、1964〜1965年は元気な少年が活躍するギャグ、1968年の大人向け読み切り『黒ィせぇるすまん』で新境地を開き、その後ブラックユーモアやエッセイ漫画、ゴルフ漫画へと幅を広げていった。

制作面では、当初はきちんとネーム(コマ割りまで決めた設計図)を作っていたが、『フータくん』のある回のオチを即興で作ってその意外性を気に入ったことから、原稿用紙に直接下描きして描き進めるスタイルに変えたという。「ギニャー!」「ンマーイ!」「ギャース!」「ムキー!」といった独特の叫び声の描き文字も、Ⓐ作品の目印として知られる。

主な作品[編集]

作品 主な掲載時期 主な映像化
忍者ハットリくん 1964〜1968年(『少年』)、1981〜1988年(コロコロコミック) 1966年 実写ドラマ、1981〜1987年 テレビ朝日系アニメ、2004年 実写映画、2012年 日印共同アニメ
怪物くん 1965年〜 1968〜1969年 TBS系アニメ、1980〜1982年 テレビ朝日系アニメ、2010年 日本テレビ系ドラマ
黒ィせぇるすまん/笑ゥせぇるすまん 1969〜1971年(『漫画サンデー』)ほか 1989年〜 アニメ、1999年 ドラマ、2017年『笑ゥせぇるすまんNEW』、2025年 テレビ東京制作の新作ドラマ(Prime Video)
まんが道 1970〜1972年(『週刊少年チャンピオン』)、1977〜1982年(『週刊少年キング』)、1986〜1988年 1986年 NHK銀河テレビ小説でドラマ化
魔太郎がくる!! 1972〜1975年(『週刊少年チャンピオン』)
プロゴルファー猿 1974〜1980年(『少年サンデー』) 1985〜1988年 テレビ朝日系アニメ
ブラック商会変奇郎 1976〜1977年
ウルトラB 1984〜1989年 1987〜1989年 テレビ朝日系アニメ
パラソルヘンべえ 1989〜1991年 1989〜1991年 NHK衛星アニメ劇場
プリンスデモキン 1991〜1999年

受賞歴[編集]

年 受賞・受章
1990年 第10回 藤本賞 特別賞(映画『少年時代』製作)
1990年 第11回 山路ふみ子文化財団特別賞(プロデューサーとして)
2005年 第34回 日本漫画家協会賞 文部科学大臣賞(全作品)
2008年 氷見市名誉市民
2008年 旭日小綬章
2014年 第18回 手塚治虫文化賞 特別賞(『まんが道』『愛…しりそめし頃に…』)
2017年 北日本新聞文化賞

独立前(コンビ時代)の受賞は「藤子不二雄」名義で扱われる。

人物[編集]

菜食と食べ物の逸話[編集]

卵と乳製品は食べる卵乳菜食で知られた。思想上の理由ではなく、実家の寺で幼いころから精進料理ばかり食べていたため、肉や魚を体が受け付けなくなったのが理由だという。肉や魚の料理のガイドブックを眺めて「おいしそうだなぁ」と楽しむのが好きだったとも語っている。

駆け出し時代、アシスタントに行った手塚治虫が出前で取ってくれた鰻重を一切れ食べた直後に大量の鼻血を出した、という本人いわく「まさに漫画のよう」な体験談がある。一方でトキワ荘近くの中華料理店「松葉」のラーメンは好物で、2014年には高知旅行で生まれて初めて食べたカツオのたたきを大いに気に入った、というエピソードをエッセイ漫画に描いている。

社交家なのに照れ屋[編集]

パーティや飲み会に顔を出し、バラエティ番組のレギュラーを持ったこともあるほど社交的で、老若男女を問わず友人が多かった。その一方でシャイな性格でもあり、子どものころは人前ですぐ赤面することから「電熱器」というあだ名がついたという。相手を「君」「さん」で呼ぶのが苦手で、名字に「氏」を付けて呼ぶことが多かったが、同級生の藤本だけは生涯「藤本君」と呼んでいた。

趣味と座右の銘[編集]

1970年ごろ、漫画家のつのだじろうに誘われて極真会館に半年ほど入門し、のちに大山倍達から名誉初段を授与された。空手入門の様子を描いた漫画もある。船旅を好み、クイーン・エリザベス2世号に乗船した体験も短編漫画にしている。座右の銘は「明日にのばせることを今日するな」。

藤本弘への敬意[編集]

最も尊敬する漫画家として、元相棒の藤本(藤子・F・不二雄)の名を挙げ続けた。「藤本君は天才だ」「彼がいなければ僕は漫画家にはならなかったと思う」と繰り返し語っている。吾妻ひでおの受賞祝賀パーティでは「藤子不二雄として沢山賞を貰ったが、あれは全部藤本の作品です。僕は貰ってません」とあいさつして会場を沸かせた(実際には単独でも多くの賞を受けている)。

故郷・氷見との関わり[編集]

出身地の氷見市には「氷見市潮風ギャラリー(藤子不二雄Ⓐアートコレクション)」があり、原画や作品を紹介する展示と、作品を自由に読めるまんが図書室が設けられている。市内中心部には『忍者ハットリくん』『怪物くん』などのキャラクターをかたどったモニュメントが点在し、作品を通じたまちおこしが続けられてきた。2008年には、自作キャラクターの提供などで市の活性化に貢献したとして氷見市名誉市民に選ばれている。

余談[編集]

  • コンビ解消は不仲によるものではないとされ、解消後も二人の交流は続いた。藤本が1996年に亡くなった後も、安孫子は藤本の才能を語り続けた。
  • 喪黒福造の決め台詞「ドーン!!!」は、作品を離れて単独のネットミームとして広く使われている。
  • 実家が寺であったため、幼少期から仏教説話に触れていたことが、因果応報を骨格とする後年の作風につながったと指摘されることがある。
  • 少女漫画の世界では、1970年代に萩尾望都・竹宮惠子らが暮らした「大泉サロン」が、トキワ荘になぞらえて語られることが多い(24年組を参照)。

外部リンク[編集]

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