中原悌二郎

中原 悌二郎
なかはら ていじろう
ファイル:Nakahara Teijiro.jpg
誕生日 1888年10月4日
死亡日 1921年1月7日
死亡年齢 32歳
出身地 北海道釧路
国籍 日本
職業 彫刻家
活動期間 1910年代
代表的な実績 「若きカフカス人」「平櫛田中像」


概要[編集]

中原悌二郎(なかはら ていじろう、1888年〈明治21年〉10月4日 - 1921年〈大正10年〉1月7日)とは、大正期の日本を代表する彫刻家のひとり。北海道釧路に生まれ旭川に育った。ロダンに啓発され、内面の生命を彫り出すような塑造で「若きカフカス人」などの傑作を残したが、結核のため32歳で夭折した。画家中村彝の生涯の友であり、芥川龍之介がその作品を絶賛したことでも知られるらしい。郷里の旭川には彼の名を冠した彫刻賞と美術館がある。

生い立ち[編集]

釧路に生まれた悌二郎は、1897年に母とともに旭川へ移り、母方の叔父の養子となった。当初は医師を志していたが、美術教師の林竹治郎の影響を受けて17歳で画家を志し、上京する。やがて彫刻家・荻原守衛(碌山)の感化によって彫刻へと転じ、太平洋画会研究所の彫塑部で新海竹太郎に師事した。画から彫刻へと向かったその転身が、悌二郎の運命を決めた。

ロダンとの出会い[編集]

1912年(明治45年)、当時日本でも名が知られ始めたばかりのロダンの実作に初めて触れた悌二郎は、深く啓発された。形そのものよりも内に宿る生命を造形しようとするロダンの姿勢は、悌二郎の制作の核となった。1916年には日本美術院の研究会員に転じ、「石井氏の像」で樗牛賞を受けて院友となるなど、彫刻家としての地歩を固めていった。

若きカフカス人[編集]

1919年(大正8年)、悌二郎は世界を放浪中のロシア青年をモデルに代表作「若きカフカス人」を制作した。憂いと生命力をたたえた青年の像は、晩年の芥川龍之介が講演旅行中に「誰かこの中原悌二郎氏のブロンズの『若者』に惚れるものはないか」と絶賛したと伝わる。彫刻が文学者の魂をも揺さぶった逸話として、近代美術史に語り継がれている。

夭折と顕彰[編集]

「若きカフカス人」に続いて「平櫛田中像」の制作に取りかかった悌二郎であったが、1919年末に喀血して重い肺結核に倒れ、ついに制作を再開できぬまま1921年(大正10年)に32年余の短い生涯を閉じた。盟友中村彝もまた同じ病と闘っていた。郷里の旭川市は彼を記念して「中原悌二郎賞」を設け、旭川市彫刻美術館にその業績を伝えている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]