与謝野鉄幹

与謝野 鉄幹
Yosano Tekkan
ファイル:与謝野鉄幹.jpg
本名 与謝野寛
誕生日 1873年2月26日
死亡日 1935年3月26日
死亡年齢 62歳
出身地 京都府京都市
国籍 日本
居住地 東京
家族 与謝野晶子(妻)
職業 歌人、詩人
活動期間 1890年代 - 1935年
代表的な実績 雑誌『明星』創刊、新詩社主宰


概要[編集]

与謝野鉄幹(よさの てっかん、1873年2月26日 - 1935年3月26日)は、明治・大正の歌人・詩人。本名は寛(ひろし)。雑誌『明星』を創刊し、結社「新詩社」を率いて明治浪漫主義の一大拠点を築いた、いわば「文学プロデューサー」の側面が強い人物。妻はあの与謝野晶子

自身の歌人としての評価は、妻・晶子や弟子たちの華々しさに押されがちだが、若き才能を見出して世に送り出した功績は計り知れないらしい。

新詩社と『明星』[編集]

京都の僧侶の家に生まれた鉄幹は、若くして歌の革新を志す。1899年に「東京新詩社」を起こし、翌1900年に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義をかかげたこの雑誌は、旧来の和歌を打破する新しい短歌・詩の運動の中心となった。鉄幹のもとには、北原白秋吉井勇木下杢太郎、そして石川啄木ら、のちの文壇を担う才能が続々と集まった。高村光太郎もここに短歌を投じている。

晶子との出会い[編集]

『明星』への投稿者だった鳳晶子(のちの与謝野晶子)と恋に落ち、1901年に結婚。晶子の歌集『みだれ髪』は二人の恋のなかから生まれ、世間を騒がせた。以後、夫婦は明治浪漫主義の象徴的なカップルとして文学史に名を刻む。6男6女をもうけた。

歌人として[編集]

鉄幹自身も「ますらをぶり」(男性的で雄渾な歌風)をかかげ、若き日には「人を恋ふる歌」(妻をめとらば才たけて…)などで知られた。やがて妻・晶子の才能が世に認められるにつれ、自らの作風の評価との間で複雑な思いも抱えたという。晩年は慶應義塾大学で教鞭をとった。

余談[編集]

  • 「鉄幹」は号で、本名は寛。雑誌『明星』は何度か休刊・復刊を繰り返した。
  • 晶子とともにヨーロッパを旅したこともあり、その体験は二人の作品に影を落としている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]