概要[編集]
上杉謙信(うえすぎ けんしん、1530年 - 1578年)は、戦国時代の武将・大名。越後国(現在の新潟県)を治めた。卓越した軍事的才能から「越後の龍」「軍神」と称され、戦国最強の武将の一人として名高い。 「義」を何より重んじ、私欲のための戦をほとんどしなかった珍しいタイプの戦国大名。宿敵・武田信玄との「川中島の戦い」は戦国屈指の名勝負として語り継がれている。毘沙門天を篤く信仰し、自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていたという、なかなかにロックな人物。
来歴[編集]
家督相続[編集]
謙信は享禄3年(1530年)、越後守護代・長尾為景の子として生まれた。幼名は虎千代、のちに長尾景虎。幼少期は寺に預けられ、仏教に深く親しんだ。兄・晴景の隠居にともない若くして家督を継ぎ、内乱続きだった越後を統一していった。 この頃から「戦が異常に強い」ことで知られ、周辺勢力から頼られる存在となる。
関東管領就任[編集]
景虎は、北条氏に追われた関東管領・上杉憲政を保護し、その名跡と関東管領職を譲り受けて「上杉政虎」、のちに将軍・足利義輝から一字を賜って「上杉輝虎」と名乗った。出家後の法名が「謙信」である。 関東管領として、関東の秩序を守る「義の戦い」を掲げ、関東へ何度も出兵した。
川中島の戦い[編集]
謙信の名を不朽にしたのが、武田信玄との5度にわたる川中島の戦い(1553〜1564年)である。特に永禄4年(1561年)の第四次合戦は激戦で、謙信自ら馬で信玄の本陣に斬り込み、信玄が軍配でこれを受け止めた——という「一騎打ち」の名場面が有名(史実かは諸説あり)。 信濃の覇権をめぐる両雄の対決は決着こそつかなかったが、戦国史上もっとも有名なライバル対決として今も愛されている。
最期[編集]
晩年は織田信長とも対立し、手取川の戦い(1577年)で織田軍を撃破。いよいよ上洛か、というところで天正6年(1578年)、遠征の準備中に急死した。死因は脳溢血とされる。享年49。 後継者をめぐって養子の景勝と景虎が争う「御館の乱」が勃発し、上杉家はしばらく混乱することになる。
人物・エピソード[編集]
- 「義」の武将 - 領土的野心より道義を重んじ、困っている者を助けるための出兵が多かった。敵将・武田信玄の領国が塩不足に陥った際、塩を送ったという「敵に塩を送る」逸話はあまりに有名(諸説あり)。
- 毘沙門天信仰 - 軍神・毘沙門天を熱烈に信仰し、旗印に「毘」の一字を掲げた。
- 生涯不犯 - 生涯妻を娶らず、子を作らなかった。これが後年「上杉謙信女性説」というユニークな俗説を生むことになる。
- 大酒飲み - 無類の酒好きで、馬上で杯を傾ける「馬上杯」を愛用。これが健康を害した一因とも言われる。
炎上とバズ[編集]
- 上杉謙信女性説 - 生涯独身などの逸話から「実は女だった」というトンデモ説が一部で人気。創作では女性化キャラとして描かれることも多く、ファンの間で定番ネタ。
- 敵に塩を送る論争 - 美談として有名だが「実際は普通に商売で塩を売っただけ」という説もあり、歴史クラスタでたびたび議論になる。
- 跡継ぎ問題(御館の乱) - 子を作らなかったために起きた後継者争いは、「義の人」の唯一にして最大の誤算とも評される。
- 酒の飲みすぎ - 死因に酒が関わったとされ、「軍神でも酒には勝てなかった」とネタにされる。
余談[編集]
- 戦国最強候補として武田信玄と必ずセットで語られる永遠のライバル。両者の対比は「動の信玄、静の謙信」とも。
- トイレで倒れたと伝わり、「英雄も最期はトイレ」という妙な親近感を持たれている。
- 「第一義」を生涯のモットーとし、これを書いた額が春日山城に掲げられていたという。
- ゲーム作品では雪をまとった美形キャラとして描かれ、女性ファンが急増した。創作補正で人気爆発した武将の代表格。
- 越後の経済は青苧(あおそ)という繊維の交易で潤っており、謙信の軍事力はこの経済力に支えられていた。意外と経済通。