上原浩治
上原浩治の雑談魂.jpg
(Source:google)
ID YouTube:@KojiUehara-Zatsudan
本名 上原 浩治(うえはら こうじ)
誕生日 1975年4月3日
年齢 49歳
身長 187cm
血液型 -型
プラットフォーム YouTube
登録者数 YouTube:77万人[1]
事務所 -
別名 -
リンク YouTubekoji-uehara.netTwitterInstagram


概要[編集]

日本のYouTuber(ユーチューバー)、YouTubeチャンネル。 元プロ野球選手

歴史[編集]

  • 1998年のドラフトでは横浜高校の松坂大輔と並ぶ目玉と目された。大学時代は地元の大阪近鉄バファローズが目をつけていたが、国際大会の活躍で注目度を上げたことで、メジャー4球団を含む複数球団が獲得に乗り出し、最終的にメジャーリーグベースボール(MLB)のアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツによる争奪戦となった。迷いながらも巨人を逆指名し、1位で入団した。入団会見では「メジャーでやるにはまだ自信がないから、日本を選んだ」と述べ、悔しさを滲ませた。背番号は上述の理由により19を選択した。
  • 1999年は毎週日曜日に登板するという先発ローテーションが組まれていたため、「サンデー上原」と呼ばれた。前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。新人投手の記録としては1966年に堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。

10月5日のヤクルトスワローズとの最終戦では、すでに中日ドラゴンズの優勝が決まった後の消化試合であったため、注目はタイトル争いとなり、各チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争い、松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けた。ここで上原も、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチからの敬遠の指示に従いストレートの四球で渋々歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を思いっきり蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭った。なお、この年、ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取り、9回の4打席目では再び勝負し適時打を打たれた。また上原自身も当時中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっており、2失点完投勝利で20勝目を挙げた。 このシーズンは20勝4敗の好成績を残し、両リーグを通じて1990年の斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としては1980年の木田勇以来19年ぶりの20勝投手となった。最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。また、新人王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、沢村賞(20世紀最後)も受賞する。鈴木啓示の座右の銘「草魂」に由来する、自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。

  • 2000年7月2日の広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。7月27日には川崎市内で自家用車を運転中にオートバイと接触事故を起こし、オートバイの男性が重傷を負った。この事故について球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受け、業務上過失傷害で書類送検され罰金30万円の略式命令を受けた。これによりアサヒ飲料「十六茶」のCM契約も打ち切られ、シーズンは9勝7敗に終わり規定投球回数もクリアできなかった。同年の日本シリーズ(対福岡ダイエーホークス)では、第3戦に先発し、チームの1勝目と同時に自身のシリーズ初勝利を挙げ、その後のチームの4連勝で日本一を果たした。
  • 2001年は、4月13日の横浜ベイスターズ戦で左太ももの肉離れを起こして一時離脱し、後半戦では右膝の故障もあり、2年ぶりに2桁勝利を記録したが、この年も規定投球回数がクリアできず防御率は自身最低となる4.02に終わった。
  • 2002年は自身初の200イニング登板を達成し、17勝5敗の好成績で最多勝を獲得し、最高勝率も達成。沢村賞、ベストナインも受賞する。西武ライオンズとの2002年の日本シリーズ第1戦に先発し、12奪三振・1失点完投勝利の快投でチーム史上初で1990年の西武以来12年ぶりの4連勝ストレート勝ちでの日本一に貢献し、優秀選手賞を獲得。シーズン後に行われた日米野球にも選出され、バリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグのスカウトからの注目を集める。11月29日にはアフガニスタンの子どもたちへの支援金として200万円を当協会事務局長に手渡した。
  • 2003年に7月20日から8月29日にかけて7試合連続完投勝利を挙げるなどして最多勝争いに加わり(最終的には20勝の井川慶)、2年連続で200イニング登板達成、16勝5敗、最多奪三振を獲得と、ゴールデングラブを受賞した。

例年より始動を早め、万全のコンディションで臨んだ2004年のキャンプでは右足を痛めてしまう。開幕には間に合わせ、当初は中5日かつ最初の6試合で平均球数130球以上を記録と投げまくるも、5月に左足を故障。しかしローテーションを1回飛ばしたのみですぐに復帰。膝に負担がかからないようにコンパクトなフォームに変更し試合を作った。同年シーズン途中にはアテネ五輪出場により一時離脱。最後は6連勝でシーズンを終えた。同年シーズンはリーグ3位の13勝を記録し、防御率はリーグ唯一の2点台となる2.60で2度目の最優秀防御率を受賞。9月14日には元モデルの山﨑美穂と結婚した。この年の契約更改で年俸が3億円に到達。入団6年目での3億円到達は史上最速であった。

  • 2005年はポスティングシステムによるメジャー移籍志願を公言したために契約交渉がもつれ、キャンプ入りが遅れた。(後述)防御率リーグ3位、完投数リーグ3位、奪三振リーグ5位、投球回リーグ4位、WHIPリーグ1位など好成績を残したが、打線の援護に恵まれず、またリリーフ陣が打ち込まれたこともあって、勝敗は9勝12敗と自身初めてのシーズン負け越しを経験した。
  • 2006年シーズン開幕前3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。同大会ではエースとして3戦2勝の好投で優勝に貢献。準決勝ではこの大会の対戦で2敗していた韓国を相手に7回を無四球無失点の快投で勝利を呼び込んだ。また大会最多の16奪三振を記録。

シーズンでは球団史上最多、7度目(7年連続)の開幕投手を務め自身5年ぶりの開幕戦勝利を挙げ、8月25日の阪神戦で、ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイとなる191試合目での100勝を達成したものの、8勝9敗で2年連続一桁勝利で負け越した。 この年から、巨人の財団法人骨髄移植推進財団への支援開始をきっかけに、自身も骨髄バンクへの登録を呼びかける活動を始めた。6月に自らも骨髄バンクに登録し、試合前のイベントなどで登録を呼びかける。また、シーズンオフには東海大学医学部付属病院へ訪問し、病気の子供達にクリスマスプレゼントを渡している。

  • 2007年は故障により出遅れたため、8年連続での開幕投手及び9年連続開幕一軍スタートを逃した。プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。序盤に抑えの豊田清の不調が重なったことでこの年は抑えとして起用されることになった。5月2日の中日戦でプロ初セーブを挙げた。8月5日には球団史上初の4日連続セーブを記録し、8月29日のヤクルト戦では球団新記録及びプロ野球タイ記録の月間11セーブを挙げた。9月26日の中日戦でも球団新記録となる31セーブを達成。最終的には32セーブを挙げ、MVP投票でも2位の評価を受けた。プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏豊に次ぎ史上2人目であった。中日とのクライマックスシリーズ・2ndステージでは第2戦・第3戦に登板したものの、シーズンにもなかったビハインドの場面に登板。レギュラーシーズンで12試合登板無失点7セーブを記録していた中日打線にも李炳圭にソロ本塁打を打たれるなど追加点を許し、3連敗でのクライマックスシリーズ敗退後はベンチで号泣した。オフには初めて巨人の後輩(西村健太朗)を伴い自主トレを行った。
  • 2008年4月4日にFA権を取得。翌年のメジャーリーグ移籍を目指すことを7日に表明。巨人の球団代表清武英利からは「全力を上げて慰留する」と同時に「今までよく我慢してくれた」という労いの言葉が贈られた。シーズンではかねてから希望していた先発ローテーション復帰を果たすも5試合に登板して4敗、防御率6.75と不調が続いたため、4月27日付で一軍登録抹消。故障以外ではプロ入り後初となる二軍落ちを経験した。二軍では小谷正勝コーチなどと調整と投球修正を続けていた。7月に北京オリンピックの日本代表監督である星野仙一からの代表招集要望で一軍に緊急復帰し、セットアッパーとして登板するも、本来の調子を取り戻すことはできなかった。しかし星野から「日本代表に最も必要な男」と国際試合での相性・経験を見込まれ、代表に選出された。一軍でも尾花高夫投手コーチと遠投に取り組むなど、引き続き投球修正を続け、原監督には精神的な部分での問題を指摘され、ビハインドでの救援や、僅差で二死からの救援など、段階を上げながら試行錯誤を重ねた。前半戦最終戦、五輪代表合宿合流前の最後の試合となった7月29日、8回1点差から登板し1イニング無失点、その後4点差となったことで9回も続投して3三振に抑え、この年の一軍初セーブを記録した。前年の2007年に代謝異常の難病を患っていた少年と「元気になったら東京ドームでキャッチボールをする」と約束。8月28日の東京ドームでの横浜戦の試合前に約束は実現し、少年はその試合で始球式を務める。この様子はその年の24時間テレビで放送された。この試合では約4か月ぶりの先発復帰を果たし、先発投手として693日ぶりの勝利を挙げた。その後も尻上がりに調子を上げ、北京五輪後は7試合で4勝1敗。唯一の敗戦もソロ本塁打での1失点のみで防御率2.08という好成績で巨人の逆転優勝に貢献した。西武との日本シリーズでは第1戦(11月1日)に先発したが、負け投手となる。10月以降の敗戦は自身初であった。第5戦にも先発したが、3回2失点で降板。しかしチームが逆転勝ちしたため敗戦は免れた。

日本時代に2回の沢村賞を受賞したが、複数回の沢村賞を受賞したのは14人で、平成に入ってからは斎藤雅樹・上原・斉藤和巳・田中将大・前田健太・菅野智之の6人しかいない(2019年シーズン終了現在)。また、前年に73本塁打を記録した全盛期のバリー・ボンズを日米野球で3打席連続三振に抑えたり、国際試合負け無し、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振をそれぞれ複数回獲得するなど、球界を代表する投手として活躍した。 11月14日、FA宣言を行い、正式にメジャーリーグ挑戦を表明。SFX社のマーク・ピーパーを代理人に迎えた。

  • 2009年1月6日にボルチモア・オリオールズと2年契約で基本合意。13日に2年1000万ドル+出来高600万ドルで正式に契約を交わし、同球団初の日本人選手となった。背番号は巨人時代と同じ「19」に決まった。
  • 2009年、開幕から先発ローテーション入りし、4月8日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャーデビューし初勝利を挙げた。しかし、同年5月23日のワシントン・ナショナルズ戦では脱水症状からくる左太もも裏の痛みを訴えて降板し、27日にも痛みが再発したためDL入りしたのに続き、6月23日のフロリダ・マーリンズ戦では右肘に違和感を訴え途中降板し、28日に精密検査で右肘腱の部分断裂が判明し再び故障者リスト入り。監督のデーブ・トレンブリー(英語版)は復帰後はリリーフに転向させる意向を示唆していたが、約8週間リハビリを続けたものの回復にはさらに長くかかり、9月上旬にシーズン中の復帰を断念した。結局、MLBの1年目は前半戦に先発登板した12試合のみとなった。
  • 2010年1月1日に株式会社スポーツカンパニーとマネジメント契約を結び、8月にはグリーンカードを取得。スプリングトレーニング中に左太もも裏を痛め、DL入りして開幕を迎えた。5月からリリーフとして復帰するが、6試合の登板後に右肘痛が再発して再びDL入りした。約1か月後の6月29日に復帰した後は、17試合登板して防御率1.80、WHIP1.10と好投を続けた。敗戦処理を含む比較的楽な場面であったが、安定した投球を続けていたことが、新しく監督に就任してオリオールズの再建に着手したバック・ショーウォルターの目に留まって暫定クローザーとして起用されることになった。8月21日のテキサス・レンジャーズ戦の9回に登板し1安打無失点に抑えメジャー初セーブを挙げた。7月16日のトロント・ブルージェイズ戦でMLB歴代4位タイの32試合連続無四球を記録。オフに250万ドルの出来高を含む総額550万ドルの1年契約を結んだ(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)。
  • 2011年は、ブルージェイズからケビン・グレッグがクローザー契約で加入したことにより、セットアッパーを務めた。グレッグが精彩を欠いた反面、スプリングトレーニングで右肘を痛めたが、その後は安定した投球を続け、7月まで43試合に登板し1勝1敗、防御率1.72、WHIP0.70(リーグの救援投手でトップ)という好成績を残した。また前年から続いていた連続無四球試合数は36試合にまで伸び、MLB歴代3位の記録となった。オリオールズでは上原が投げるときに「kojiコール」が起きるほど、ファンからも信頼されていた。
  • 2011年7月30日にトミー・ハンター、クリス・デービスとのトレードで、前年にワールドシリーズ進出を果たしたテキサス・レンジャーズに移籍し、高校時代に同級生であった建山義紀とチームメイトとなった。背番号は巨人、オリオールズ時代と同じ「19」。残りのレギュラーシーズン(2011年)では打者優位の球場(後述)に対応できず、8月前半の11試合は防御率6.52、WHIP1.24を喫し、被本塁打率は3.72と大きく打ち込まれた。しかしその後は持ち直し、8月31日には55試合登板を達成し翌年の契約オプションを更新。9月は10試合の登板で防御率1.23、WHIP0.23と復調し、チームのポストシーズン出場に貢献した。シーズン通算では65試合で防御率2.35、リリーフ投手中リーグ1位のWHIP0.72、同5位の奪三振率11.77、同2位の与四球率1.25を記録した。

自身初となったポストシーズンではタンパベイ・レイズとのディビジョンシリーズ第2戦で登板を果たすも、エバン・ロンゴリアから3点本塁打を打たれた。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦でもミゲル・カブレラに本塁打を打たれ、さらに第5戦でもライアン・レイバーンに本塁打を打たれてポストシーズン史上初となる3戦連続被本塁打を記録。チームはワールドシリーズ進出を決めたが、「レギュラーシーズンは良かったのに、この3試合で成績すべてが消えた感じになった。もう1回、チャンスがほしい」と語り復調を目指したが、セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズではロースターから外れ、チームは第7戦で敗退した。

  • 2012年1月23日にトロント・ブルージェイズとのトレードが成立したが、ブルージェイズを含む6球団に対してトレードの拒否権を持っていたため翌日に移籍を拒否し、トレードは破談となった(他の5球団は公開されていないが関係者によると「優勝の可能性が低く、家族の滞在を考慮した住環境が整いにくいところ」だという)。

同年のシーズンは、20試合の登板で防御率2.11、WHIP0.70という成績を残していたが、右広背筋を痛めて6月14日にDL入り。その後マイナーでリハビリ登板を続けていたが、右広背筋に再び張りが出て復帰が遅れ、8月26日にDLから復帰。レギュラーシーズン最終戦まで14試合連続無失点を記録し、後半戦は17試合の登板で1セーブ、防御率1.23、WHIP0.54の成績を残したが、チームは地区優勝を逃す。ESPNの1900年からの統計によると、この年のK/BB14.33は、年間35イニング以上を投げた投手ではエカーズリーが1989年と1990年に記録した数値に次ぐメジャー歴代3位の記録だった。本人はこの年は『一発病』の克服をテーマとしていたが、イニング数の違いはあるものの、被本塁打数は前年11本から4本へと減少した。ポストシーズンではボルチモア・オリオールズとのワイルドカードゲームの8回に登板しクリーンナップを3者連続三振の快投を見せるも、チームは敗退しディビジョンシリーズ進出を逃した。

  • リリーフ転向後、2010年は43試合で防御率2.86、13セーブ、2011年は65試合で防御率2.35、2012年は37試合で防御率1.75と、安定した成績を残してきた上原は、オフにはMLBの複数球団で争奪戦となった。12月6日にボストン・レッドソックスと総額425万ドル+出来高の1年契約(2年目は55試合登板で自動更新される年俸425万ドルの球団オプション)で合意したことが報じられ、18日に契約した。本人は決め手を、自分を最も必要としてくれている球団だと感じたこと、そしてクラブハウスに温水洗浄便座があることも良かったと語った。一方で前年地区最下位のレッドソックスの側では、GMのベン・チェリントンはどうしても必要な補強では無いと当初考えていたが、セイバーメトリクスに精通したスタッフやアドバイザーのビル・ジェームズが強く進言したため、急遽獲得に動いたと言う。この契約は後に、「レッドソックスは奇跡を捕まえた」と称された。
  • 2013年レギュラーシーズンに、2010年以来トレードマークとしていたもみあげをさっぱりと剃りあげたこの年は、序盤は4月21日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で失点するまでの8試合、前年から続く22試合連続無失点を記録。6月9日のエンゼルス戦で与死球を記録したが、これがメジャー移籍後、183試合目、打者920人目にして初めての与死球であった。シーズン当初にクローザーを務めたジョエル・ハンラハン、アンドリュー・ベイリー、田澤純一が不調となったため、6月21日に上原が(4人目の)クローザーに指名された。6月26日に指名後初セーブを挙げ、6月27日のブルージェイズ戦では、NPB/MLB通算50セーブを記録した。前半戦は44試合の登板で2勝0敗8セーブ、防御率1.70、WHIP0.76の成績を残し、MLBオールスターゲーム最終投票の候補に選ばれるまでとなった。8月13日のブルージェイズ戦でシーズン55試合目の登板に到達、翌年の契約オプションを更新した。日本人投手歴代最長の26試合連続無失点を記録し、34人連続アウトの球団記録も更新。13日も3人で抑えて記録を更新したが、次の17日のオリオールズ戦でダニー・バレンシアに三塁打を打たれ、犠飛で失点してシーズン初の負け投手となり、記録はストップした。連続アウト37人はメジャー史上10位(救援投手では2位)また同時に連続無失点試合は27試合、連続無失点イニングは30回1/3連続無失点を達成した。9月20日のブルージェイズ戦で20セーブ目を挙げてチーム6年ぶりの地区優勝を決め、MLBにおける日本人2人目の胴上げ投手となった。9月27日のオリオールズ戦では、救援投手では球団史上初となるシーズン100奪三振に到達。救援投手でのメジャー記録となるWHIP0.57を記録した。なお、このシーズンは73試合に登板した。シーズン途中からの抑え転向だったことでセーブ数こそ21と伸びなかったものの、救援投手ながらサイヤング賞投票でも10ポイントの票が入っていた。ディビジョンシリーズでは、本人が嫌な相手と語るタンパベイ・レイズと対戦。第2戦から第4戦に出場し2セーブを挙げたものの、第3戦では、同点の9回裏二死の場面で、途中から守備で入っていたホセ・ロバトンに39試合ぶりの被弾となるまさかのサヨナラ本塁打を打たれている。この打球はトロピカーナ・フィールド名物の「エイが入った巨大水槽」に叩きこまれ(球場史上3回目)、レイズの選手による初のタンクヒットとして記録された。リーグチャンピオンシップシリーズでは前年ア・リーグ王者のデトロイト・タイガースとの対戦となったこのシリーズの6試合中5試合に登板し、1勝0敗3セーブ4安打9奪三振無四球無失点という圧倒的数字で、リーグ優勝決定シリーズMVPに選ばれた。これは救援投手としてはマリアノ・リベラ(2003年)以来、MLB史上3人目の快挙であった。また、日本人では初の受賞でもあった。ワールドシリーズはセントルイス・カージナルスが相手で、両リーグの最高勝率球団同士の対戦となった。第3戦の同点の9回裏一死・走者二・三塁の場面で、ジョン・ジェイの二塁ゴロで三塁走者を本塁でタッチアウトにしたが、捕手のジャロッド・サルタラマッキアが三塁へ悪送球。捕球できずに倒れた三塁手のウィル・ミドルブルックスに走者のアレン・クレイグが躓き、これが走塁妨害と判定されて、ワールドシリーズ史上初めての「走塁妨害によるサヨナラ負け」を喫した。第4戦では、9回裏二死走者一塁の場面で一塁走者のコルテン・ウォンを牽制アウトに仕留めた。これはワールドシリーズ史上初めての「牽制死によるゲームセット」で、同時に日本人としてもワールドシリーズで初のセーブを挙げた。第5戦でもセーブを挙げ、歴代のポストシーズンで最多タイの7セーブを挙げた。更に、優勝のかかった第6戦においても9回5点差で登板し、最後にマット・カーペンターを三振にしとめ、MLBにおける日本人初のワールドシリーズ胴上げ投手となった。なお、このシーズンはポストシーズンを含むと86試合に登板しており、メジャー全投手の中で最多登板という、量・質共に比類の無いシーズンを過ごした。
  • 2014年シーズン始めからクローザーに定着、前半戦は42試合に登板し18セーブを挙げ、防御率1.65、WHIP0.76、奪三振率11.75と大躍進を遂げた前年に劣らぬ好成績を収める。田中将大が故障者リスト入りしたことに伴いMLBオールスターゲームへの出場を辞退したため、代わりに選出された。オールスターゲームでは6回二死の場面で登板し、デビン・メソラコを三振に切って取った。後半戦に入っても好投を続けていたが、8月16日から6試合の登板で10失点を喫する乱調に陥り、9月5日にはクローザーの役割から外れることとなった。シーズン通算では2年連続で60試合以上の登板を果たし、26セーブを挙げた。防御率は終盤の乱調が影響し前年より大幅に悪化したが、WHIP0.92、奪三振率11.19は高い水準を保った。
  • 2015年4月3日に故障者リスト入りが発表され、同年シーズンの開幕メンバーから外れることが決定した。4月14日のワシントン・ナショナルズ戦のシーズン初登板で、1回無失点でセーブを挙げた。40代の日本人投手がセーブを挙げたのは斎藤隆以来2人目であった。5月10日ブルージェイズ戦で9回に登板、無安打1四球の無失点で6セーブ目、NPB/MLB通算100セーブ目を挙げた。8月7日の敵地タイガース戦で9回途中に登板した際、打球を止めようとして出した右手に打球がぶつかり、手首を骨折した。非分離型撓骨遠位端骨折と診断され、同年の残り試合を欠場する見通しであると球団が発表した。レッドソックスは11月13日、サンディエゴ・パドレスとのトレードでメジャー通算225セーブ(2015年シーズン終了時点)を記録し、MLBを代表するクローザーのクレイグ・キンブレルを獲得したと発表。これにより、NBCスポーツなどの複数メディアは上原がチームから8回を担当するセットアッパーに配置転換されることになったと同日に報じた。
  • 2016年7月19日のジャイアンツ戦で右胸筋を痛め、翌日故障者リスト入りとなった。9月5日に復帰すると、7日のパドレス戦に復帰後初めて登板し、1回を無安打無失点に抑えた。結局復帰後は11試合に登板し無失点でレギュラーシーズンを終えている。最終的には50試合に登板し、2勝3敗、7セーブ、18ホールド、防御率3.45を記録した。地区シリーズでは第1戦、第3戦と無失点を記録するもチームは敗退した。11月3日にFAとなった。
  • 2016年12月14日にシカゴ・カブスと1年600万ドルで契約を結んだ。この年のオフには、来期のオフにメジャーでのオファーがなければ引退すると発言していた。
  • 2017年は開幕戦となる4月2日のカージナルス戦で同年シーズン初登板。1イニングを投げ無失点に抑えた。11月2日にフリーエージェント(FA)となった。
  • カブスをFAとなった時点で日本球界復帰やマイナー契約の意志はなく、MLBから契約のオファーがなければ同年限りでの引退の可能性も示唆していた。しかし、2018年になると一転して日本球界への復帰を示唆。そして3月9日に古巣の巨人と1年契約を結び、同日に入団記者会見が行われた。かつての背番号「19」は菅野智之が着用していたため、「11」を背負うこととなった。これは空番から本人が指定した。契約金は1億円、推定年俸は2億円+出来高払い(いずれも推定)となり、同日付で支配下選手登録公示された。
  • 2018年3月31日の阪神タイガース戦の8回に4番手として、2008年10月5日の対中日戦以来3,464日ぶりのNPB公式戦登板を果たし、1回を三者凡退無失点に抑えて公式戦3,535日ぶりのホールドを挙げた。しかし、オープン戦での段階での入団だったにも関わらずすぐ一軍に合流したことから調整不足に陥り4月10日のDeNA戦と4月15日の広島東洋カープ戦で打ち込まれ2試合連続で敗戦投手となる。同年のマイナビオールスターゲーム2018に中継ぎ投手部門のファン投票で選出され、11年ぶりに球宴へ出場。第2戦(リブワーク藤崎台球場)の6回に4番手で登板。43歳3か月での球宴登板となり、2005年に当時チームメイトだった工藤公康が記録した球宴最年長登板記録(42歳2か月)を更新。7月20日、広島東洋カープ戦の7回に3番手で登板してホールドを挙げ、世界で2人目、日本人では史上初となる日米通算100勝100セーブ100ホールドを記録した。しかし夏場に入ると再び打ち込まれる場面が目立ち、7月26日のヤクルト戦で延長11回から登板するも山田哲人に勝ち越し適時打を打たれて敗戦投手となり、翌27日に二軍へ降格した。その後、調整を経て8月25日に再昇格すると以降はシーズン終了まで一軍に帯同した。日本復帰1年目は36試合に登板し、5敗14ホールド・防御率3.63を記録した。10月23日、左膝のクリーニング手術を受けた。経過を見極める必要性から、10月29日に一度自由契約となったが、12月14日に自身のブログを更新し、巨人と再契約を結んだことを明かした。
  • 2019年からは、菅野が背番号を「18」へ変更したため、メジャー移籍前に使用していた背番号「19」を再び背負うことになった。また、中日に在籍していた岩瀬仁紀が2018年限りで現役を引退したことにより、同い年でもある千葉ロッテマリーンズの福浦和也と並んで球界最年長選手となった。開幕は一軍入り出来ず、二軍スタートとなった。
  • 2019年は一軍復帰はならず、同年5月20日にシーズン途中での現役引退を表明。同日付でNPBより任意引退選手として公示された。シーズン中に引退という異例の事態に球団では慰留の構えを見せるも本人は残らず、「二軍で抑えられないようでは一軍では抑えられない。辞めるなら球団に迷惑かけたくない。若手の投げる機会を奪いたくないから」などといった内容の発言を残している。なお、日本プロ野球12球団における令和最初の任意引退選手となった。
  • 2020年からはTBSテレビ『サンデーモーニング』内のスポーツコーナー「週刊御意見番」コメンテーター(不定期出演。2021年まで)、NHK『サンデースポーツ』コメンテーター、2022年からは日本テレビゲスト解説者、日刊スポーツ野球評論家、タレントとして活動。 因みに2022年からは『サンデーモーニング』内のスポーツコーナー「週刊御意見番」に新しい御意見番として就任した。また、同年1月31日にはYouTubeの公式チャンネル「上原浩治ベースボールアカデミー」を開設した。
  • 2020年9月に、『サンデーモーニング』の番組内で、新型コロナウイルスに感染していたことを公表した。上原によると、アメリカから帰国後、成田空港でのPCR検査で陽性であることが判明した。無症状であったため、ホテルで数日隔離しているだけで済んだという。
  • 2021年9月9日放送のテレビドラマ『八月は夜のバッティングセンターで。』の第9話(最終回)に本人役で出演した。

話題[編集]

余談[編集]

  • 座右の銘には「雑草魂」を挙げている。
  • 実兄は北川ヒューテック代表取締役社長の北川隆明。
  • 2006年のWBC優勝時のシャンパンファイトでイチローへ口に含んだシャンパンを吹きかけ、イチローから「お前は人間性に問題がある!」と冗談交じりに怒られた。このシーンは生放送で全国中継されていたためブログのコメント欄が批判で炎上してしまったという。イチローとは仲がこじれることはなく2020年現在でも連絡を取り合っており「実際どういう気持ちだったのか、イチローさんに本音を聞きたいですね」と述べている。
  1. 2024年1月