ログインなしで、このまま編集できます。編集の記録には、名前の代わりに「IPアドレス」(ネット回線の番号のようなもの)が残ります。名前で記録したい方はログインまたはアカウント作成へ。スパム攻撃防止用のチェックです。 決して、ここには、値の入力はしないでください![[Category:インフルエンサー/YouTube]] [[カテゴリ:YouTuber/登録者数20万人以上]] {{インフルエンサー | 背景色 ={{YouTube色}} <!-- 希望がなければこのまま --> | 文字色 =#FFFFFF <!-- 希望がなければこのまま --> | 罫線色 ={{YouTube色/罫線色}} <!-- 希望がなければこのまま --> | 名前 =前田 日明 | 外国語表記 = | 画像 =[[ファイル:前田日明チャンネル.jpg]] | 画像説明 =(Source:google) | ID =YouTube:@user-ym3jv5oi1z | 本名 =前田 日明(まえだ あきら) | 生年 =1959 | 生月 =1 | 生日 =24 | 出身地 = | 国籍 = | 居住地 = | 家族 = | 身長 =192cm | 体重 = | 血液型 =-型 | 宗教 = | 学歴 = | プラットフォーム =[[YouTube]] | 登録者数 =YouTube:26万人<ref>2025年1月</ref> | フォロワー数 = | 活動期間 = | ジャンル = | 代表作品 = | 事務所 =- | ファンクラブ = | 関連活動 = | 別名 =クイック・キック・リー 、前田 明、コ・イルミョン | サイン = | その他 = | リンク =[https://www.youtube.com/channel/UCdr9GSa8Mm_2W039apA_1sw YouTube] | 掲示板 =[https://naomoi.com/n/インフルエンサー n/インフルエンサー] }} ==概要== 日本の[[YouTuber]](ユーチューバー)、[[YouTube]]チャンネル。 元プロレスラー ==歴史== *1977年、佐山聡の目に止まり、やがて新日本プロレスへ入門。1978年8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。新日本プロレスの社長兼エースのアントニオ猪木に憧れて入門したのではなく、「モハメド・アリのジムと提携してるので一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる」と新間寿に言われたのが理由である。金を貯めなくてもアメリカに行け、ベニー・ユキーデと戦うこともできると考えていた。実際は提携の事実はなく、新間が半ばだました形で入団をさせた(当時、ユキーデは新日本の主催興行に出場していたが、前田とは対戦する機会はなかった)。 *大型であることから将来のエース候補として期待され、1982年2月に海外修行でイギリスへ渡り、「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミックのもと、クイック・キック・リー(Kwik-Kik Lee)のリングネームで活躍。1983年1月25日にはウェイン・ブリッジ(英語版)を破り、かつてはビル・ロビンソンやホースト・ホフマンも戴冠したヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得。英国マットでは、マーク・ロコ、ピート・ロバーツ、パット・ローチ、フィット・フィンレイ、クラッシャー・ブラニガン、マル "キングコング" カーク(英語版)、ジャイアント・ヘイスタックス(英語版)とも対戦した。 *1983年4月21日の凱旋帰国試合では、ポール・オーンドーフを相手にリバース・アームソルトにてピンフォール勝ちを収めた。5月開幕のIWGP決勝リーグ戦には「欧州代表」として、11月開幕の第4回MSGタッグ・リーグ戦には 藤波辰巳とのタッグチームで出場した。凱旋当時は「七色のスープレックスを持つ男」と紹介され、相手をロープに飛ばしてのフライング・ニール・キックなど、ダイナミックな技で人気レスラーとなった。また、甘いマスクで女性ファンも多く、帰国した年のファンクラブの集まりでは女性が多かったことが週刊プロレスで報じられている。 *1984年2月29日の合同練習を最後に前田は新日本プロレスを離脱し、WWF会長でもある新間寿の仲介で3月より、WWFに遠征。同月25日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカナダのピエール・ラファエルを破り、新設されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。ベルトには「UWF」の文字が中央に大きく施されており、その後、前田は第1次UWFへの移籍を表明した。なお、このWWF遠征における前田はベビーフェイスのポジションで、アイアン・シーク、レネ・グレイ、ワイルド・サモアンズ、ジェリー・バリアント、タイガー・チャン・リー、ミスター・フジ、デビッド・シュルツ、ジョージ・スティールなどのヒール勢と対戦し、トニー・アトラスやS・D・ジョーンズ、トニー・ガレアらとタッグを組む一方、ロッキー・ジョンソンやブライアン・ブレアーなど同じベビーフェイス陣営との試合ではヒールの役割を担った。また、新日本プロレスでの若手時代に世話になったロディ・パイパーや、前年の凱旋帰国時の対戦相手だったポール・オーンドーフとも再会し、旧交を温めたという。 *1985年12月6日、藤原、木戸修、高田伸彦、山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本プロレスに復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。 *1986年1月3日に開幕した「ニューイヤーダッシュ'86」でアントニオ猪木への挑戦権を賭けUWF所属選手総当たりの「UWF代表者決定リーグ戦」を開催。2月5日大阪城ホールでリーグ戦同点の藤原喜明と対戦し延長戦の末、足固めで敗れ猪木への挑戦権を逃した。翌2月6日、両国国技館で行われた猪木vs藤原戦の終了直後リングに雪崩込み猪木を蹴撃、3月26日東京体育館において前田と猪木の一騎打ちが発表されるも中止になり、新日本vsUWFの5対5イリミネーションマッチとなった。 *1986年4月29日、三重県津市体育館において新日本サイドの不可解なマッチメイクで、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチだと言われているが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わる。復帰後の新日本プロレスではディック・マードックとの対戦が23回と対外国人では最多、日本人選手では越中詩郎が34回、木村健吾が33回、上田馬之助が29回。 *1986年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」における異種格闘技戦で、ドン・中矢・ニールセンを逆片エビ固めでギブアップを奪い勝利。この試合を期に「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。この試合について、後年、ニールセンは「ここはこうやって、その次はこう、と流れを決めたわけではなかった。でも、ボクが言われたのは“試合を盛り上げてくれ”ということ。そして、1Rにいいパンチが入ったのに、セコンドに“アーリーノックアウトはダメだ”って言われた」と、プロレス雑誌『kamipro』で証言した。 *1987年11月19日、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチにおいて、木戸にスコーピオン・デスロックをかけていた長州力の背後から正面へ回り込み、長州の顔面をキック(敵の固め技から味方を救う同様の攻撃はカットまたはセーブと呼ばれる)、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた(長州vs前田 顔面蹴撃事件。前田本人は「長州さんに蹴りを入れる前に肩を叩き ”今から蹴りますよ” と合図を送ったが肩を叩かれた長州さんが横を向いてしまった」「事件ではなく事故」と語っている)。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇される。後に前田は、プロレス雑誌「Gスピリッツ」におけるインタビューで、全日本プロレスでの天龍・輪島戦の衝撃に対抗するため顔面蹴りを試みたところ、長州が顔を反らしてしまったためにアクシデントに至ってしまったと証言している(和解済み)。また当時マッチメイカーであり、またこの試合でレフェリーを務めていたミスター高橋によれば、セーブとしては激しい攻撃でありまた当たり所も悪く、「プロレスでやってはいけない攻撃」ではあり、長州の怪我の状態が深刻であること、および長州がリング上での報復を意図していた事を鑑み予定を変えその場で試合終了とした。高橋によればこのように、強力な攻撃が急所に入ってしまう事故は珍しいものではなく、通常は後に謝罪すれば収まるものであるのだが、そこを猪木が(危険な攻撃は)「プロレス道にもとる」として追放処分にしてしまった判断は、「プロレスとは相手に怪我をさせないように執り行う物である」と言ったようなものだと疑問視し、むしろ遺恨試合というアングルに繋げるべきではなかったかと指摘している しかし、実際に前田を追放したのは長州派閥であり、猪木は前田を伴って座禅を組みに行く等離脱前に関係は修復されていた。 *第2次UWFは、1988年5月12日に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ戦を行った。当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。 その後、前田とUWF社長の神新二との間で、神社長の会社の株式の無断の独占問題と不明朗な経理で問題が発生。1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションに選手を招集し団体の存続性を探ろうとしたが、「前田さんの言う事だけを一方的に信用するのは不可能。」(宮戸優光)、「なんか強制されてるみたいで嫌だなぁ・・・。」(安生洋二)、などの不協和音も飛び出し、話し合いは紛糾。やむを得ず前田は解散を宣言し、第二次UWFは隆盛を極めながらも、活動期間僅か2年8ケ月という短い歴史にピリオドを打った。 *第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。同年5月11日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。リングスの興行はWOWOWで生放送された。さらには、UWF時代の人脈からオランダのクリス・ドールマンの全面協力を得ることになった。正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積しそれが後のK-1の飛躍へとつながった。 *1993年から始まったUFCの影響を受けて、1999年からリングスもバーリトゥードに近い完全な真剣勝負であるKOKルールを採用した。KOKルールは、グラウンド状態での顔面への打撃は禁止であったが、スタンド状態での顔面打撃を認めた画期的なルールであった。また、従来の(一部の特別な試合を除く)リングスの試合とは異なり完全な総合格闘技の試合形式で行われた。佐山は初期の修斗ルールと同じと言っていたが、グラウンドでの腹部・腰部・足部への打撃有無の違いがある。 *1997年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦がヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、前田はヒクソンとの対戦を宣言し交渉を進めるが、ヒクソン側が高田延彦との試合を決めたため、実現することはなかったと1998年に前田が記者会見を開き説明した。 *1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きい。カレリンとの引退試合は民放のニュース番組で特集されるほど、世間から注目されていた。後に前田は、引退試合の相手にカレリンを選んだ理由について「本当に強い人間っていうのは、こういうことだよっていうのを証明したかった」と語っている。 WOWOWによる次年度よりの放映打ち切り決定により、2002年にリングスは活動停止。しかし、リトアニア、オランダ、ロシアでは大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営し、リングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されている。 *2005年、元新日本プロレスの上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。同時に、船木誠勝と和解。 *2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウス・ラウドを脱退。上井による会社資金の横領の露見、それによる資金難による団体所属選手および社員の給与未払い、道場を用意しようとしなかった等、上井の資金の使い込みをめぐる確執が脱退理由であった。 *2007年10月5日、「HERO'S KOREA 2007」の開催発表記者会見に出席。前日10月4日にPRIDE事務所が閉鎖され活動停止となったことに関し「天網恢々粗にして漏らさず」と発言。同日深夜、HERO'S公式サイトで谷川貞治が「不適切な発言」と謝罪文を掲載する事態となった。 同年12月31日、「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」で田村潔司vs所英男の試合後のリング上にプレゼンターとして登場。勝利者賞のトロフィーを田村に放り投げるように押しつけるトラブルを起こした。 *2008年2月15日、「THE OUTSIDER」の記者会見を開き、HERO'Sの発展的解消に伴い同イベントのスーパーバイザーを降板したことが発表された。それまで確執が取り沙汰されていた旧PRIDEとHERO'Sとの連立イベントDREAMについては「めでたいこと」と述べた。 *2008年1月21日、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象としたアマチュアの格闘技大会「THE OUTSIDER」の立ち上げを発表し、3月30日にディファ有明において旗揚げ大会を開催した。 ==話題== ==余談== *元在日韓国人で、韓国名は高 日明(コ・イルミョン、고일명)。1983年に日本に帰化した。 * 釣りのために小型船舶も所有している。 *ポルノから哲学、戦記物まで読むというほど読書好き。特に太宰治や、孔子の論語に傾倒し、第二次UWFを旗揚げした際に「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」という、太宰治が「葉」(『晩年』所収)で引用したポール・ヴェルレーヌの「叡智(Sagesse)」の言葉を、孫引きした挨拶を行っている。また、作家の山田詠美とも交流がある。 *日本刀は50振以上所有している。また、日本刀に限らず、骨董品を見て回るのが好き(『オーラの泉』に出演したときに発言)。 *航空機が好きで、結婚した際「子供はパイロットにしたい」とコメントしている。夢は零式艦上戦闘機で太平洋を横断することと語っている。テレビ番組「所萬遊記」で、所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘っている。また、元帝国海軍中尉でエースパイロットの坂井三郎を慕っており、対談もおこなった。また富士通AirWarriorからフライトシミュレーターも続けている。2010年まではFighter Aceプレイヤーだったがサービスが終了してしまった。 *熱烈なMacintosh信者(エバンジェリスト)。数十MBが主流の時代に1,000MBを超えるメモリーを搭載したMacを使っており、Mac専門誌で取材されたことも有る。 *サバイバルゲーム - M4カービンのカスタム等、複数の銃を所有し装備や銃等、本気モード全開で楽しんでいる模様。銃や装備は、本人がショップまで出向き、米軍放出品等こだわりを持って購入している。ゲームフィールドが開催する定例会等にも、THE OUTSIDERの選手や複数の関係者らと参加していることがあり、一緒にゲームを楽しめたりすることもある。 *パイプタバコと葉巻が好きである。 *無類のニンニク好き。自身のユーチューブチャンネルの料理動画でも大量のニンニクを使用している。 {{DEFAULTSORT: まえたひあかりちやんねる}} [[カテゴリ:ネット文化]] [[カテゴリ:ネット文化/YouTuber]] 編集内容の要約: 宇宙wikiへの投稿はすべて、クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 (詳細は宇宙wiki:著作権を参照)のもとで公開したと見なされることにご注意ください。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集され、自由に配布されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。 また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください。 著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください! キャンセル 編集ヘルプ (新しいウィンドウで開きます) このページで使用されているテンプレート: テンプレート:Infobox (編集) テンプレート:Infobox/行 (編集) テンプレート:YouTube色 (編集) テンプレート:YouTube色/罫線色 (編集) テンプレート:インフルエンサー (編集)