警告: このページの古い版を編集しています。 公開すると、この版以降になされた変更がすべて失われます。ログインなしで、このまま編集できます。編集の記録には、名前の代わりに「IPアドレス」(ネット回線の番号のようなもの)が残ります。名前で記録したい方はログインまたはアカウント作成へ。スパム攻撃防止用のチェックです。 決して、ここには、値の入力はしないでください!== 概要 == 著書'''『版画を作る人へ』'''で大正期の創作版画運動に火を付けた版画家。ムンクに衝撃を受けて版画を始め、[[長谷川潔]]らと黎明期の版画団体を率いた、日本近代版画の地ならし役らしい。晩年には独自技法「ナガセプリント」まで生み出した、生涯現役の実験者だった。 {{人物 | 背景色 = #4A235A | 文字色 = #FFFFFF | 罫線色 = #D2B4DE | 名前 = 永瀬義郎 | 外国語表記 = ながせ よしろう | 本名 = | 生年 = 1891 | 生月 = 1 | 生日 = 5 | 死亡年 = 1978 | 死亡月 = 3 | 死亡日 = 8 | 出身地 = 茨城県 | 国籍 = 日本 | 職業 = 版画家 | 肩書 = | 活動期間 = 1910年代〜1978年 | 代表的な実績 = 『版画を作る人へ』 | 別名 = | その他 = }} == 画学修業 == 1891年、茨城県に生まれた。白馬会研究所で長原孝太郎に学び、東京美術学校彫刻科に入るが数日で中退するという破天荒なスタート。その後は京都で荒木十畝の画塾に入って日本画を学ぶなど、あちこちを渡り歩きながら自分の道を探した。やがてムンクの版画に強く影響され、版画制作にのめり込んでいく。 == 創作版画運動 == 大正期、文芸雑誌『仮面』の同人として表紙や挿絵を手がけ、評論も発表した。1916年に[[長谷川潔]]・広島晃甫らと第1回日本版画倶楽部を開催。1919年の第1回日本創作版画協会展には会員として出品し、「自画・自刻・自摺」を掲げる創作版画運動の最前線に立った。複製のための版画ではなく、版画そのものを表現とする運動である。 == 『版画を作る人へ』 == 1922年に刊行した著書'''『版画を作る人へ』'''は、技法と精神論を平易に説いた入門書として大評判となり、のちの版画家たちに広く読まれた。[[谷中安規]]もこの本に導かれて版画を始めたといわれ、創作版画の裾野を一気に広げた一冊である。永瀬は「版画のアジテーター」とも呼べる存在だった。 == 渡欧と晩年 == 1929年の春陽会展で受賞して渡仏し、1936年に帰国。戦後の1970年に無所属となり、1973年には「ナガセプリント(NP-73)」という新しい版画技法を創始するなど、80歳を過ぎても実験をやめなかった。1978年、87歳で死去。生涯にわたって版画の可能性を押し広げ続けた人だった。 == 余談 == * 彫刻科を数日で中退したエピソードに象徴されるとおり、組織や制度に収まらない自由人だった。 * 『版画を作る人へ』は当時の若者にとってバイブル的な存在で、版画家志望者の背中を数多く押した。 == 関連項目 == * [[長谷川潔]] / [[平塚運一]] / [[恩地孝四郎]] / [[棟方志功]] / [[谷中安規]] * [[川上澄生]] == 外部リンク == * [https://ja.wikipedia.org/wiki/永瀬義郎 ウィキペディア「永瀬義郎」] [[Category:美術]] [[Category:人物]] [[Category:版画家]] {{DEFAULTSORT: なかせよしお}} 編集内容の要約: 宇宙wikiへの投稿はすべて、クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 (詳細は宇宙wiki:著作権を参照)のもとで公開したと見なされることにご注意ください。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集され、自由に配布されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。 また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください。 著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください! キャンセル 編集ヘルプ (新しいウィンドウで開きます) このページで使用されているテンプレート: テンプレート:Infobox (編集) テンプレート:Infobox/行 (編集) テンプレート:人物 (編集)