警告: このページの古い版を編集しています。 公開すると、この版以降になされた変更がすべて失われます。ログインなしで、このまま編集できます。編集の記録には、名前の代わりに「IPアドレス」(ネット回線の番号のようなもの)が残ります。名前で記録したい方はログインまたはアカウント作成へ。スパム攻撃防止用のチェックです。 決して、ここには、値の入力はしないでください!{{人物 | 背景色 = #2E2A4A | 文字色 = #FFFFFF | 罫線色 = #C0A062 | 名前 = 石川寅治 | 外国語表記 = Ishikawa Toraji | 画像 = | 画像説明 = | 本名 = | 生年 = 1875 | 生月 = 4 | 生日 = 5 | 死亡年 = 1964 | 死亡月 = 8 | 死亡日 = 1 | 出身地 = 高知県高知市 | 国籍 = 日本 | 居住地 = | 家族 = | 学歴 = 不同舎(小山正太郎) | 職業 = 洋画家、版画家 | 肩書 = | 活動期間 = 1890年代 - 1964年 | 代表的な実績 = 太平洋画会の結成、港・船の風景画 | 受賞 = 文展二等賞、日本芸術院恩賜賞(1953) | 事務所 = | 関連活動 = 太平洋画会、示現会創立 | 別名 = | あだ名 = | その他 = | リンク = }} == 概要 == 石川寅治(いしかわ とらじ、1875-1964)は、明治から昭和まで息長く活躍した洋画家・版画家。[[小山正太郎]]の私塾「不同舎」で学び、[[吉田博]]・[[満谷国四郎]]らとともに「太平洋画会」を結成した中心メンバーのひとりである。アカデミックな堅実さから出発しつつ、港や船をいきいきと描く明るい画調へと進んだ、まじめで風通しのよい画家らしい。 == 不同舎から太平洋画会へ == 高知市に生まれ、旧制中学時代に上村昌訓から洋画の手ほどきを受けた。1891年に上京し、[[小山正太郎]]の不同舎に学ぶ。ここは[[青木繁]]や[[坂本繁二郎]]、[[吉田博]]、[[満谷国四郎]]ら錚々たる顔ぶれを輩出した名門で、寅治もその一員だった。1893年に明治美術会展に「野鴨」を初出品。1900年のパリ万博にも作品を出し、翌1901年には明治美術会の組織改革にともなって[[吉田博]]・[[満谷国四郎]]とともに太平洋画会を結成した。 == 渡欧と文展での活躍 == 1902年に渡欧し、1904年に帰国。西洋絵画を直接学んだ経験は、その後の作風に大きく作用した。文展には1907年の第1回から出品を続け、1914年(大正2年)には文展二等賞を受賞。初期は婦人像を多く描いたが、やがて港や船を好んで取り上げるようになり、アカデミックな描写から次第に印象主義的な明るい色調へと移っていった。海と船を愛した画家として知られる。 == 示現会と晩年 == 長く所属した太平洋画会を1947年に脱会し、自ら「示現会」を創立して代表に就任した。1949年から5年間は東京教育大学の講師を務め、後進の指導にもあたっている。1953年には日本芸術院恩賜賞を受賞。版画家としても活動し、明るく端正な木版作品を残した。1964年に死去。半世紀以上にわたり日本洋画の堅実な一角を担い続けた、息の長い画家であった。 == 余談 == * 不同舎は[[浅井忠]]ら明治美術会系の流れをくみ、[[黒田清輝]]の白馬会(外光派)と並ぶ近代洋画のもう一つの源流で、寅治はその系譜のど真ん中にいる。 * 港や帆船のモチーフが多いのは、[[吉田博]]が海や山を愛したのと通じるところがあり、太平洋画会らしい「自然志向」の表れともいえるらしい。 == 関連項目 == * [[小山正太郎]] * [[吉田博]] * [[満谷国四郎]] * [[浅井忠]] * [[青木繁]] * [[坂本繁二郎]] * [[中川八郎]] * [[黒田清輝]] [[Category:洋画家]] [[Category:人物]] 編集内容の要約: 宇宙wikiへの投稿はすべて、クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 (詳細は宇宙wiki:著作権を参照)のもとで公開したと見なされることにご注意ください。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集され、自由に配布されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。 また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください。 著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください! キャンセル 編集ヘルプ (新しいウィンドウで開きます) このページで使用されているテンプレート: テンプレート:Infobox (編集) テンプレート:Infobox/行 (編集) テンプレート:人物 (編集)