里見勝蔵

里見勝蔵
Satomi Katsuzō
誕生日 1895年6月9日
死亡日 1981年5月13日
死亡年齢 85歳
出身地 京都府
国籍 日本
学歴 東京美術学校
職業 洋画家
活動期間 1920年代〜1970年代
代表的な実績 1930年協会・独立美術協会の結成、ヴラマンクの紹介


概要[編集]

里見勝蔵(さとみ かつぞう、1895〜1981)は、大正〜昭和の洋画家。日本にフォーヴィスム(野獣派)を本格的に持ち込んだ立役者で、巨匠ヴラマンクの直弟子として、その激しい色彩と筆致を日本洋画に注ぎ込んだ人物である。佐伯祐三前田寛治らとの「1930年協会」、さらに独立美術協会の結成に関わり、在野洋画運動のキーマンとして活躍した。

ヴラマンクとの37年[編集]

京都に生まれた里見は東京美術学校を卒業後、1921年に神戸からフランスへ渡る。その秋、滞在先のオーヴェル=シュル=オワーズで写生をしていたところ、偶然ヴラマンクと出会う。これが運命の出会いとなり、以後なんと37年にわたって交流が続いた。里見はフォーヴィスムを正面から学び、帰国後は日本にヴラマンクと野獣派を紹介する伝道師となる。後輩の佐伯祐三をヴラマンクに引き合わせたのも里見だった。

1930年協会[編集]

1925年に帰国した里見は二科会に出品して頭角を現し、1926年には佐伯祐三前田寛治・小島善太郎らと「1930年協会」を結成。パリ帰りの若手による新しい油彩画運動の中核を担った。

独立美術協会へ[編集]

里見は二科会の枠に飽き足らず、1930年に二科会を脱退。同年、児島善三郎らとともに「独立美術協会」を立ち上げ、フォーヴの運動を一気に押し広げた。在野の洋画団体として独立美術協会はその後も大きな存在感を持ち続ける。里見はまさにその産みの親の一人である。

戦後の歩み[編集]

戦後の里見は国画会の会員として制作を続けた。ヴラマンク譲りの力強い風景画・静物画を描き続け、長命を保って1981年に85歳で没した。日本にフォーヴィスムの種をまいた功績は大きく、「ヴラマンクといえば里見」と語り継がれている。

余談[編集]

  • ヴラマンクとの交流を綴った文章や紹介の仕事も多く、画家であると同時に「橋渡し役」としての役割が大きかった。
  • オーヴェル=シュル=オワーズはゴッホ終焉の地としても有名な村。里見はそこでヴラマンクに出会ったのだから、なんとも因縁めいている。

関連項目[編集]