| 島成園 Shima Seien | |
|---|---|
| 本名 | 諏訪 成榮(のち森本成榮) |
| 誕生日 | 1892年2月18日 |
| 死亡日 | 1970年3月5日 |
| 死亡年齢 | 78歳 |
| 出身地 | 大阪府堺市 |
| 国籍 | 日本 |
| 居住地 | 大阪 |
| 学歴 | (独学) |
| 職業 | 日本画家 |
| 活動期間 | 1910年代 - 戦後 |
| 代表的な実績 | 「宗右衛門町の夕」、大阪の女性画家ブームの牽引 |
| 受賞 | 文展入選 |
| 関連活動 | 「女四人の会」 |
概要[編集]
島成園(しま せいえん、1892-1970)は、大正期の大阪で女性日本画家ブームを牽引した存在。本名は諏訪成榮(結婚後は森本成榮)。決まった師につかず独学で文展入選を果たし、京都の上村松園、東京の池田蕉園と並んで「三都の三園」と称された。痣のある女性をあえて描くなど、女性として生きる苦悩や反骨を画面にぶつけた、芯の強い画家である。
独学で文展入選[編集]
大阪府堺市に生まれた。父・栄吉も絵師、兄も画家兼図案家という絵に囲まれた家で育ち、15歳頃から兄の仕事を手伝いながら、ほぼ独学で絵を身につけた。特定の師を持たないというのは、画塾文化の強い当時としては異例である。そして20歳の1912年、第6回文展に「宗右衛門町の夕」で初入選を果たし、一躍注目を浴びた。師なしの若い女性が大舞台に躍り出たのだから、その衝撃は大きかったらしい。
三都の三園と女四人の会[編集]
成園の成功は、同世代の女性画家たちを大いに刺激した。京都の上村松園、東京の池田蕉園、大阪の成園は「三都の三園」と並び称され、女性日本画家の象徴的存在となる。1916年には木谷千種・岡本更園・松本華羊とともに「女四人の会」を結成。井原西鶴の『好色一代女』を題材にした作品を発表したところ、識者からは「生意気で挑発的」と受け止められ、揶揄されることもあった。男社会の画壇で女性が自己主張することへの風当たりの強さがうかがえる。
痣のある女[編集]
成園を語るうえで欠かせないのが、あえて顔に痣のある女性を描いた作品「無題」である。成園自身、「痣のある女の運命を呪い、世を呪う心持ちを描いた」と語っており、美人画の枠を超えて、女性の内面の屈託や社会への抗議をにじませた点が際立つ。美しく整った女性像が当たり前だった時代に、あえて「呪い」を描いたところに、成園の作家としての凄みがある。
ゴシップと晩年[編集]
人気が出るにつれ、画家・北野恒富や文人らとの恋愛ゴシップを新聞に書き立てられるなど、有名人ゆえの苦労も味わった。女性であることを理由にした心ない記事も少なくなかったらしい。やがて縁談を受け入れた頃から思うように制作ができなくなり、銀行員の夫の転勤に伴って国内外を転々。第二次世界大戦後に大阪へ戻り、晩年まで小品を描き続けた。1970年に死去。近年は「女性画家たちの大阪」展などで再評価が進んでいる。
余談[編集]
- 師を持たない独学での文展入選という経歴は、当時の女性画家としては破格で、後進の女性たちに「自分にもできる」という希望を与えたらしい。
- 木谷千種とは「女四人の会」の盟友で、大阪の女性日本画ネットワークの中心人物どうしであった。