| 沖縄アクターズスクール | |
|---|---|
| 国家 | 日本 |
| 種類 | タレント養成所 |
| 業種 | 芸能 |
| 本社所在地 | 沖縄県 |
| 設立日 | 1983年4月 |
| 設立者 | マキノ正幸 |
| 関係する人物 | マキノ正幸、長門裕之 |
概要[編集]
沖縄アクターズスクールとは、1983年4月に沖縄県で開校したタレント養成所である。創設者はマキノ正幸で、1990年代のJ-POPを担う歌手やグループを相次いで輩出したことで知られる。
詳細[編集]
創設者のマキノ正幸は1941年2月7日生まれ。祖父は日本映画の草創期を支えたマキノ省三、父は映画監督のマキノ雅弘、母は女優の轟夕起子という映画の家系に生まれている。1971年に初めて沖縄を訪れ、翌1972年に移り住んだ。
開校は1983年4月で、俳優の長門裕之が校長に就任した。最初の募集には1600件の応募があり、そこから85人が選ばれて入学している。地方の養成所として異例の規模であり、この時点で需要の大きさが表れていた。
以後、安室奈美恵、SPEED、MAX、DA PUMP、三浦大知といった歌手やグループが在籍者から世に出た。マキノは2024年6月28日に敗血症性ショックのため83歳で死去し、2023年には子息と息女により新たな法人が設立されている。
なぜ沖縄から集中して出たのか[編集]
同じ養成所から短期間に何組もの歌手が出たことは、しばしば「沖縄の風土」や「歌と踊りの文化」で説明される。実際に沖縄には芸能を日常の中に置く土壌があり、その説明には一定の説得力がある。
ただし、この説明だけでは1983年という時期と、この養成所という一点に集中したことは説明できない。もう一つの説明は、当時の芸能界が抱えていた条件のほうにある。
歌って踊る形の表現を売り出すには、歌唱と振付を同時にこなせる人材が要る。そうした技能は撮影現場で身につくものではなく、時間をかけた訓練でしか得られない。しかし訓練の場を作るには、長期間にわたり収入の見込みが立たない人数を抱え続ける必要がある。大手の芸能事務所にとっては割に合いにくい投資であり、東京ではこの部分が空白になっていた。
養成所という形は、この費用を事務所ではなく受講者の側が負担する構造を持つ。訓練の場が地方に成立しえたのは、素質の分布よりもこの負担の設計によるところが大きい。どちらの説明も一方だけでは足りず、両方が重なったと見るのが妥当である。
「養成所から出る」ことの意味[編集]
養成所出身という経歴には、他の経路と異なる性質がある。アイドルのオーディションでは、選ばれた時点ではまだ何もできない状態から始まることが多く、訓練は仕事を得た後に並行して行われる。養成所では順序が逆で、技能を積んだ状態で世に出る。
この差は、活動の持続に関わってくる。歌唱や身体の技能は、仕事の量に左右されずに本人の側に残る。出演の依頼が減った時期にも、技能そのものが失われるわけではない。
一方で、養成所は訓練の内容が共通するため、出身者に似た特徴が出やすいという指摘もある。個性の育ち方については評価が分かれており、どちらか一方が正しいと決められる問題ではない。
よくある質問[編集]
現在も活動しているのか[編集]
2023年に創設者の子女により新たな法人が設立されている。組織の形は開校当時のものから変わっている。
誰が在籍していたのか[編集]
安室奈美恵、SPEED、MAX、DA PUMP、三浦大知などが知られる。俳優として活動する出身者もいる。
余談[編集]
マキノ正幸が映画の家系の出身でありながら、映画ではなく歌と踊りの養成所を作った点は見落とされやすい。映画は完成した作品を売るもので、作り手が育つ過程は商品にならない。これに対し、歌って踊る表現では訓練の成果がそのまま舞台で見えるものになる。育てる仕事を選んだことと、育った結果が見える分野を選んだことは、おそらく無関係ではない。
開校時の校長が俳優の長門裕之であることからも分かるとおり、当初は名称のとおり俳優の養成を想定していた。歌と踊りの学校として知られるようになったのは、結果として出てきた人材の側が方向を決めたためである。名前だけが最初の想定を残している例といえる。