公式【蝶野チャンネル】CHONO Network


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(Source:google)
ID YouTube:@chonochannel
本名 蝶野 正洋(ちょうの まさひろ)
誕生日 1963年9月17日
年齢 60歳
出身地 アメリカ合衆国ワシントン州シアトル
身長 186cm
血液型 O型
学歴 東京都立永山高等学校
プラットフォーム YouTube
登録者数 YouTube:14万人[1]
リンク YouTube自分のウェブサイトFacebookTwitterInstagram


概要[編集]

日本のYouTuber(ユーチューバー)、YouTubeチャンネル。 プロレスラー

歴史[編集]

  • 1984年4月、蝶野は武藤敬司と同日に新日本プロレスへ入門し、同年10月に埼玉県で行われた興行でプロデビューした(初戦の相手は、同じくこの試合でデビュー戦を迎えた武藤。)。
  • 1987年の第3回ヤングライオン杯で橋本真也を破り優勝。優勝条件の海外武者修行に、同年春に出発。オーストリアのグラーツトーナメントを初参戦に、ウィーントーナメント、ドイツ転戦ではハノーバートーナメント、西ベルリントーナメント、ブレーメントーナメントに参戦。グラーツ、ブレーメンは、オットー・ワンツがプロモートする大会。キャッチ・レスリング・アソシエーション(CWA)に参戦した。ドイツ(当時西ドイツ)ブレーメンで、現在の夫人であるマルティナ・カールスと出会った。
  • 1987年12月、ヨーロッパ武者修行を終え、北米に転戦。アメリカ合衆国カンザスシティに転戦、1988年春にカナダのニューブランズウィック州モンクトンに転戦、1988年秋アメリカ合衆国アラバマのNWAテリトリーと北米を転戦。武者修行中に、2度の短期凱旋もしている。
  • 1989年二度目の欧州遠征でオーストリアグラーツトーナメント、ウィーントーナメント、ジンバブエにも遠征した。1989年秋、新日本プロレスから正式に帰国命令を受け、帰国前にアメリカ合衆国バージニア州ノーフォークのルー・テーズ道場で最終調整の短期合宿をし、日本に帰国。ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック(STF)は、この時ルー・テーズに伝授された。
  • 1988年7月が1回目の短期凱旋で、新日本プロレス有明コロシアム大会に参戦。帰国直前、蝶野はプエルトリコで武藤、橋本とともに「闘魂三銃士」を結成し凱旋。なお、闘魂継承を最も意識したのは橋本で、蝶野、武藤の2人は乗り気でなかった。
  • 1989年4月、プロレス会初の新日本プロレス第1回東京ドーム大会参戦が、蝶野の2度目の凱旋帰国となった。IWGP王座決定トーナメントに出場し、ビッグバン・ベイダーに準々決勝で破れた。この後は、ドイツブレーメンを拠点に、オーストラリア遠征、アフリカのジンバブエ遠征に参戦。正式な帰国は1989年秋であった。
  • 1989年10月に新日本に戻ってからは、1990年2月10日に新日本プロレス2度目の東京ドーム興行のメインイベントにおいて、橋本とのタッグでアントニオ猪木・坂口征二組と対戦し、4月27日に武藤とのタッグでIWGPタッグ王座を獲得、12月26日に師匠でもあるテーズを破った(なお、この試合がテーズの最後の試合となった。)。翌1991年、新日本プロレスの夏期興行G1 CLIMAXの第1回大会において素晴しいパフォーマンスを見せた蝶野は、メインイベンターとしての地位を確立した(決勝では武藤を破り優勝)。
  • 1992年にも再びG1 CLIMAXで優勝し、同時にNWA世界ヘビー級王座を獲得した。このG1連覇により、蝶野は「夏男」と呼ばれるようになった。1992年9月23日横浜アリーナ大会、スティーブ・オースチンとのNWA世界ヘビー級王座初防衛戦において防衛。古傷の首を悪化。1993年1月4日、グレート・ムタとのNWA・IWGPダブルタイトル戦で敗戦した。3連覇が掛かった1993年の第三回G1 CLIMAXでは準決勝で馳浩に破れた。1994年1月、橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦したが敗戦した。1994年8月、G1クライマックス決勝でパワーウォーリアーを破り、3度目のタイトルを手にした。
  • 1994年のG1 CLIMAX優勝後、蝶野は「武闘派宣言」によって入場テーマ曲も変えてヒールターンを果たす。この頃から蝶野は黒を基調としたコスチュームに一新し、馳浩を大流血に追い込んだ末出血する頭部を掻きむしりながらのSTFで破った。テーマ曲など現在まで続くスタイルを確立した。週刊プロレスはこの蝶野を「BLACKJACK」と称した。
  • 1995年に天山広吉、ヒロ斎藤とヒールユニット狼群団を結成。
  • 1996年に新日本と提携していたWCWに参戦、ハルク・ホーガンが率いるnWoに加入し、帰国後にその日本支部としてnWo JAPANを結成。蝶野もその総帥としてグレート・ムタ(すでに武藤として活躍)ら日本人、外国人メンバーを次々と増員し、「nWo Tシャツ」が大量に売り上げられるなど、一大ムーヴメントを起こし、同年「プロレス大賞MVP」を受賞した。
  • 1998年8月8日、大阪ドームで藤波辰爾を破り8回目の挑戦にして遂に悲願のIWGPヘビー級王座初戴冠を果たした。しかし、首の負傷により防衛戦を行うことなく王座を返上、長期欠場に入った。
  • 復帰後の1999年、AKIRA、ドン・フライらと共にTEAM 2000を結成。武藤率いるnWoと抗争を開始し、2000年に武藤との決着戦に勝利。nWoを消滅(実際にはWCWとの提携解除に伴いnWoの使用権が消滅したため。)させ、nWoの残存勢力を吸収し組織を拡大。同年、所属選手の大半が離脱し、存続の危機に陥った全日本プロレスから渕正信が新日本に登場。蝶野がマイクパフォーマンスで応戦し、対抗戦の口火を切った。単身全日本プロレス日本武道館大会に歴史的参戦。渕とシングルマッチを行い勝利後、「お前ら家に帰ってマスでもこいてろ!」とアピールし全日本ファンを敵に回した。
  • 2001年には、武藤が率いるBATTと抗争を繰り広げた。2002年、蝶野は4度目のG1チャンピオンとなった。また札幌大会で猪木に指名され、蝶野は新日本プロレスの現場責任者となった。
  • 2002年5月2日の東京ドーム大会でプロレスリング・ノアの三沢光晴と初対決。30分ドローに終わる。この東京ドーム大会は、蝶野の現場監督就任の最初仕事になった。8月には4度目のG1優勝を果たした。大会後、魔界倶楽部、高山善廣、藤田和之ら外敵との抗争に入り新日本隊に合流し、TEAM 2000は自然消滅。猪木派vs新日蝶野派の図式、総合推進派vsプロレス推進が進んだ。2003年にノアに初参戦、三沢と組み小橋建太・田上明組と対戦。ノアの有明コロシアム大会に来場し、蝶野も自ら「ミスタープロレス対ミスタープロレス」と称し、小橋の持つGHCヘビー級王座に挑戦を表明、5月2日の新日本東京ドーム大会で対決した。試合には敗れるも、蝶野は小橋のハーフネルソンスープレックス6発を受けきって見せ、小橋と共にファンの大喝采を受けた。
  • 2005年には、ヒールユニットであるブラック・ニュー・ジャパンを結成。この頃から、猪木派の強行な新日本への内部介入が表面化していった。しかし8月、G1で藤田和之を破って5度目の優勝を果たし、同年に急逝した橋本に優勝を報告した。長州力が新日本に戻ってくると反長州を掲げ抗争を開始し、2006年には新日本社長のサイモン猪木と抗争を開始する。サイモン社長の起用は歓迎と同情をしていた。その理由としては、蝶野が知らないところで社長候補として利用されていたためである。だが、同年年末の猪木、ユークス間の株式譲渡で筆頭株主に成ったユークスには否定的だった。
  • 2007年1月4日、蝶野は東京ドーム大会で武藤とタッグを結成して勝利。G1 CLIMAXにおいて真壁刀義に敗れた後、リング上にて長州、越中詩郎、マシン、ライガーを呼び出し、新軍団結成を呼びかけた。

2007年9月1日 2日、幕張メッセ国際展示場・11ホールにおいて「蝶野王国2007 in 幕張」を開催。長州率いる『LOCK UP』、藤波率いる『無我ワールド・プロレスリング』、新日本プロレスの3団体合同興行となった。これと同時に三田証券と組んでイベントを証券化することも発表された。資金調達の手法としてファンドの活用を行うことは、プロレス界にとって初めてのことであった。

  • 2008年から、蝶野が自らGM(ゼネラルマネージャー)を務める「PREMIUM」興行を開催。
  • 2009年1月4日、東京ドーム大会でケビン・ナッシュ、カート・アングル、長州力と日米レジェンドタッグを結成、真壁が率いるヒールユニットG・B・Hに勝利を収めた。10月3日、ノア・大阪府立体育会館で行われた三沢光晴追悼興行に参戦した。かつて蝶野と戦った小橋と、GHC王者の潮崎豪とタッグを結成した。10月12日、蝶野正洋25周年特別興行「ARISTRIST IN 両国国技館」を開催。蝶野も小橋と武藤とタッグを組み、メインイベントに登場して勝利した。
  • 2010年1月4日の東京ドーム大会を最後に、蝶野は首や両膝の治療と本人曰く「体のリビルド」のために長期休養に入った。1月21日に自身の25周年記念パーティーを行い、これに先立って行った会見の中で、蝶野は2010年1月末をもって新日本プロレスを退団し、アリストトリスト所属のフリーランスとなった。
  • 2010年11月5日と6日の全日本プロレス台湾興行に参戦。
  • 2011年、蝶野の師匠でもある猪木が会長を務めるIGFのエグゼクティブプロデューサーに就任することが決まった。なお、蝶野はIGFでは選手としてはリングに上がらずプロデュースに専念した。

3月6日 ZERO1両国国技館大会で行われた橋本の息子・橋本大地のデビュー戦の相手を務めた。 9月18日 仙台市立蒲町小学校にて東日本大震災復興チャリティープロレスイベント「FIGHT & LOVE」を開催。 12月末でIGFのエグゼクティブプロデューサーを退任。

  • 2012年3月2日、 ZERO1東京・後楽園ホール大会「橋本大地選手デビュー1周年試合」の立会人を務めた。

4月20日 、「DRADITION 藤波辰爾デビュー40周年ファイナル」後楽園大会でTEAM2000が一夜限りの復活。 9月2日、 大阪府寝屋川市立市民体育館で開催されたチャリティープロレス「ちびっ子のイジメ撲滅・元気ハツラツ」で、デビュー戦の相手を務めた橋本大地と初タッグを結成。 10月21日 、宮城県・女川町総合体育館で開催された「復興・応援チャリティー レジェンドプロレス」に出場。

  • 2013年1月3日、 全日本プロレスのアドバイザーに就任することが決定され、同日の後楽園ホールでの大会中に公開契約交渉が行われた。

1月13日、東京・後楽園ホール『LEGEND THE PROWRESTLING 2013』で、2013年度の初戦で勝利を収めた(坂口征夫と初対戦) 2月12日 、大館市民体育館で開催されたチャリティーイベント「FIGHTING AID in 大館 子供たちに笑顔を 〜僕たちが拓く100万人の未来〜」にゲスト登場。 8月1日 、静岡・アクトシティ浜松で開催された新日本プロレス「G1 CLIMAX23」開幕戦において生中継の解説を務める。

  • 2014年4月13日、 道頓堀プロレス大阪大会で試合を行った。この試合が、蝶野の事実上の引退試合となっている。

8月10日 西武ドームで開催された新日本プロレス「G1 CLIMAX24」にて催された撮影会に登場。

  • 2015年7月13日、橋本の十回忌という節目で新日本プロレス主催で後楽園ホールで開催された『橋本真也復活祭』にて、武藤とともに座談会を行った。
  • 2017年3月、蝶野は年間100試合する体力がないこと、体調管理ができていないことを理由にプロレスの休業を宣言した。蝶野は復帰の可能性をゼロにしていないが、実質は引退であるとしている。
  • 2021年12月3日、蝶野は脊柱管狭窄症のクリーニング手術をしたことを自身のYoutubeチャンネルで報告した。蝶野も4~5年前から坐骨神経痛のような痛みや左足のしびれ、左足先の感覚がないなどの症状が出ていたが、この年春ごろからの悪化で杖なしでは歩けなくなっており、立っているだけでつらい、痛みのために寝られないなど深刻化したため9月に手術を決断し、12月に全身麻酔で脊柱管の中を削るクリーニング処置が行われた。全治は9か月と診断されていて、蝶野も術後はしばらく車椅子を使用しての生活を経験したという。体の痛みは手術前の10分の1に軽減されたと蝶野は語っている。

話題[編集]

余談[編集]

  • 東日本大震災の被災地を巡る中、茨城県東茨城郡大洗町のイベントが元で同町を舞台としたアニメ『ガールズ&パンツァー』を知り、蝶野もその縁で『劇場版』応援大使や、さらに同作品の応援大使から転じて大洗大使にも就任し活動している。
  • 2017年7月、茨城県からの要望で「いばらき大使」に就任。
  1. 2024年5月